寒波2


妻がそうなのだが、ワインは別にそんなに好きじゃないが、日本酒は好き、ウィスキーやブランデーが好き、ジンやウォッカベースとか、食後にグラッパとか、全般的にハード・リカー系が好きな人というのは、つまり酒が喉を通るときの、あの食道への刺激というか、喉、首全体への慰安みたいものが好きなんだなというのが、最近ようやくわかってきた。僕は首という部位について、さほど思い入れがないというか、寒さ対策はまずマフラーでしょ、という人は多いが、僕はマフラーはあってもなくてもあまり変わらないし、首まわりから冷えてくるという感覚を、あまりよくわからないのだが、そういう人はモロにそうなのだろうし、マフラーで生き返るほど暖かいのだろうし、ウィスキーをガッと喉に流し込んで生まれ変わるほど幸せなのだろう。それは、まあたしかに、よくわかると言えばよくわかる、ような気はする。


朝食後、テレビのチャンネルを切り替えてたら、イーストウッド「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」がやってたので観た。これが初見。この映画が映画館で上映されていた頃のことはおぼえている。観ようかどうか迷って、結局観なかったこともおぼえている。当時は中学生だった。もし観ていたら、どう思っただろうか。今となっては、それに興味がある。そんなことを考えながら観ていた。イーストウッドの苦みばしった、困惑したような、やれやれ的な、いつものお得意の表情を、その当時に見ておいてもよかっただろうなとも思うけれども、当時からダーティーハリーのシリーズなんかはテレビでさんざんやってたのだし、中学生はそんなものは、目の前の画面に映っていても、興味が無ければいっさい見なくて、たぶん見たいものしか見ないはずだ。だからきっと、何も思わなかっただろう。まあ、そんなものだ。おそらくこれだと、中学生の僕が観ても、よくわからないし面白い箇所についてピンと来なかったはず。それこそランボー怒りの脱出の方がわかりやすくて派手だし、ぜんぜん面白かっただろうと思う。


山下澄人「しんせかい」を読む。


「いうた」
「いうてへん」
そうなのか。いった気がするけどいってなかったのか。なのならと謝った。
「ごめん」
そのときだ
「何かいっつもそうやな」
「え」
「あんたの話って何ひとつまともに聞かれへんわ」



おおよそ、すべての登場人物たちの発語が、断片的にしか「収録」されてないのに、【先生】の言葉だけは、それなりに意味のある、教訓めいた言葉になっているのが面白い。そうそう「上の人の言葉」って、こんな風に強烈にワンセンテンスごとに記憶に残っちゃう。でもそれ以外は、自分も含めて、ほぼ断片的。自分と誰かの対話すら断片的。こういうのは実質的には対話ではないのだが、現実ではほぼすべてこういう対話で世の中は出来ているのだろう。



「例えば彼」
ぼくのことだ。
「君、ええと、スミト」
「はい」
「君はさっき安藤に質問されてブルース・リーとかいってたね」
いった。
「はい」
「何ていった」
「はい」
「え」
「はいじゃなくて何てこたえた?」
「あ、ブルース・リー、です」
「そうじゃなくて、何てこたえた」
だからブルース・リー
「誰かおぼえている?」
一期生たちに【先生】は聞いた。
「はい」
と金田さんが手を挙げた。一期生の金田さんは脚本家志望の田中さんの彼女でとてもしっかりした人で、顔もしっかりしている。俳優志望の人だ。
ブルース・リー
「そう」
そういったのに。
「彼はブルース・リーです、とも、ブルース・リーに憧れて、ともいわずに、ブルース・リーとだけこたえたんだよ」
ああ。
「そのことがとても大事で、彼は質問に固有名詞だけでこたえた。これがセリフになると、いろんなイメージが出てくるね。無口だとか、ぶっきらぼうだとか、敬語がうまく話せない人だとか。敬語がうまく話せない人っているでしょ。漁師とか」



こういうブツ切れな認識のリズム感で小説が進んでいく。


とにかく寒い、馬の扱いが難しい…。


夕方から泳ぐ。面倒くさい、今日はもういいんじゃないかと思ったけど、泳ぎ始めたらもう最後までという感じ。泳ぎ終わって、身体の熱が引かないので、しばらく寒波のおもてにTシャツ一枚でたたずんで皮膚を冷却していたほど。…そして、その後、今日も地酒まつりの催事場へ…。


さすがに寒い。酒のコップをもつ手が、かじかんで感覚を無くすほどの外気温の冷たさである。でも、これこそが良いとなぜ思うのか。本来こうして飲むのがふさわしいような気がするのはなぜなのか。うしろめたさやだらしなさが、少し薄まるように錯覚するからかもしれない。


ディスクユニオンの「いますぐ聴いてほしい2016年オールジャンル700」http://diskunion.net/selectone/2016/ をみて、AppleMusicでいろいろと聴く。一昨年の「バードマン…」という映画は音楽(だけ)が素晴らしかったのだが、その演奏をやったドラマーAntonio Sanchezのアルバム「Meridian Suite」を聴くも上記レビュー「A1のブレイクのスタックシンバルの入れ方が格好良すぎます」との言葉が、曲のどの箇所を指しているのか何回か聴いてもわからず、しょんぼりする。


しかしAppleMusicには「バードマン(あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」のサントラもあって、これは最高だ。僕もさすがにAntonio Sanchezというドラマーの個性というか、その組み立て方、展開のさせ方、物の運び方、みたいなものはなんとなく掴んで聴けている気がしてしまえるくらいにはしつこく、何度でも聴いてしまっている。まあ、こういう感じがいま、一番気持ちいいと思うのだろう。でもこのアルバム、どの曲も全部一分か二分くらいの細切れになっていて、曲がおわるたびに、猛烈な欲求不満を誘うという、ある意味最悪の編集というか、苛立ちと物足りなさにおいて最悪のレコードと言える。ずーっと録音ボタン押しっぱなしで、ずーっと目の前の出来事を収録していてくれれば、それでいいのに、サントラの体裁なのでそれとは真逆の事態になっていて、下らない寄せ集め的な内容でしかなく、こちらもしょんぼりする。


音楽は、去年からそれなりに話題のものも聴く機会が、以前よりもかなり多くなったように感じるけれども、やっぱり好みというか、こんなのどこがいいの?と思うものも多いし、結局は聴きたいものを聴きたいのだね、という感じだが、まあ聴きたくないものもなるべく聴くようにはするつもり。自分の感度不足、への疑いも大きく持ちつつ。