吉祥寺、和式


図書館に向かう途中で、蝋梅の香りが漂ってきたので見回すと見事なやつが咲いていた。木の近くに立ち止まっていたら、黒い猫がこちらに向かってぐんぐん近づいてきて、僕の足に体を触れるように行き過ぎた後、立ち止まって振り返りこちらを見上げている。なんだお前は。こっちは蝋梅のにおい嗅いでるんだから邪魔するなよと言ったら、しばらくこちらを無言で見ていて、やがて少し離れて余所を向いていたが、少し場所を移動したら、しばらくするとまた近づいてきた。なんなの、君、なんで来るのよ。ちょっと邪魔しないでよ、と言ったら、向こうもやや不服そうというか、なんか手応えのないやつだなあという感じでこちらを見ている。じゃあね、もう行くから。邪魔して悪かったなと言ってその場を立ち去る。猫はしばらく横を向いていたが、少しして再びこちらを見た。退屈そうな無表情だった。



吉祥寺のA-thingsで「"Things" never die. It only changes its form. Kenjiro Okazaki paintings +」を観る。いつものことながら、ほとんど、物体が宙に浮かんでいるかのような、冬の晴天に浮かぶ雲のような、内実のない歓び、みたいな、ただ観るしかないような時間。画廊を出て、百年に寄って本を見て、そのあと喫茶店で紅茶を。ぼく紅茶最近はまってます、という感じだが、こういう店は見事なまでに客も従業員も店内百パーセント女性客な感じで、なぜ女性はいつもこういう狭い空間内の狭い席にこじんまり座ってじっとしてるのが好きなのか、などと思うけどそれは偏見か。まあ僕も立ち飲み屋などで他人と肩を触れ合うとかならとくに嫌ではない。


秋葉原へ移動してヨドバシでイヤホンを片っ端から視聴して、まあこんなもんでしょといいう感じのやつを買った。どうせまた壊れるしそこそこ安いやつ。そういえば吉祥寺の鞄店でたまたまダレスバッグを見かけて、そしたら猛烈に物欲が沸き、けっこうな値段だけどまあいいかと思って買う寸前まで来たが、まあ待ていったん冷静に考えようと思って店を出て、ネットの情報など見ていて、メーカーのサイトで商品紹介や説明など一通り読んでみたら、なぜか一気に醒めてしまって購入意欲があとかたもなく消えてしまった。例えが悪いけどほとんど射精後に匹敵する程のすごい落差。やはり情報というやつはとくにネットに載ってるような程度のがとくに人を萎えさせるのか。さっきもネットでまた色々と見ていたのだが、なんかだめだ。いやなら買わなきゃいいのだが、でも必要なら買わなきゃいけない。


そういえば今思い出したが、汚い話で恐縮だが、図書館でトイレの個室を利用したとき、洋式と和式があって、少し考えたのちあえて久々に和式にしてみた。自分のような年齢の世代なら、幼少時は和式が当たり前に存在していたのだが、最近はほぼ使用機会が皆無である。ただ和式がいいのは、身体がまったく設備に触れないじゃないですか。その点だけはやはり今でも良いと思えるのだけれども、でも久々にその姿勢を維持したら実にたいへんだった。足への負荷が半端じゃない。下手するとそのまま転倒しかねない。子供の頃は、まったく余裕でいつまでもその格好のままでいられたものだが、今は完全に苦しい。五分ともたない。というか排泄の感覚そのものに、本当にこれでいいのか、これで正しいやり方なのか的な、得体の知れぬ不安感さえ加わってくる。谷崎の「陰影礼賛」なんかに感じられる厠で過ごす時間への強い拘りと愛着などは、あれは大前提として和式スタイルの姿勢を一定時間以上維持できてはじめて実感できる訳なので、今の僕はもはやそれを失った。それが不可能な身体になってしまったのだと知る。