濱口作品


濱口竜介作品「ハッピーアワー」「親密さ」「PASSION」が先日、日本映画専門チャンネルで続けて放映されたのを録画してあって、どの作品も長いので少しずつ観ている。「ハッピーアワー」と「親密さ」は去年公開時に見て以来の、これで二度目の鑑賞で、「PASSION」は初見。


人間同士は、その関係において、揉め事、問題、トラブルを起こす。そして、これらの映画は人間同士の揉め事、問題、トラブルが発生して、はじめてその世界が生まれたと思いたいくらいの世界が構築されていると言える。


人間なら誰でも人と意見が合わなかったり色々あるのは当然だが、これらの映画では、その揉め事の部分だけを切り取ってきて、無理やり一本の話につなぎ合わせたかのような印象すら感じられる。


その唐突さというか、抽象性というか、世界を成立させるための、あからさまと言っても良いような出来事の連鎖やつながりに具合に、今回観なおしてみてある種の違和感を一番感じたのが「ハッピーアワー」だ。一年ぶりに観て、こんなにイビツな話だったっけ?といまさら驚いてしまった。


ただし、おそらくそのイビツさは意図的に仕掛けられたものだろうと観ながら感じている。画面上での登場人物たちを観ていて、こういう感覚はやはりあまり感じたことの無いものだな、とは思う。


映画の登場人物に共感するとか、感情移入するとか、そういうのは一体どういう心の動きなのかと、今更のように不思議になる。


「役者が演技している」という事を知らずに映画を観ている人はきわめて少ないわけで、ほとんどの人が、それを演技だと知っている。にも関わらず、共感したり感情移入するというのは、少なくともそのときだけ、観客は「役者が演技している」様子を見ているわけではなくて、別の何かを見ているのだろうが、「ハッピーアワー」の役者たちはその意味で、観客に従来の意味での共感や感情移入を許してくれないようなところがある。


ただ、それは演技が稚拙だから、それによってスムーズな共感に進めないからではない。演技の巧拙は関係ないというか、おそらく演技の巧拙など、わからないというか、判断できない。


そうではなく「ハッピーアワー」の世界は、何かもっと図々しいのだ。イビツさをそのままに、これをそのまま受け入れろと強制するような何かがあるのだ。


それぞれの問題や悩みをかかえた女性の友達同士四人が、それぞれの自分の考えに基づいて、今の場所を良しとせずに変化していくような話だ。


ディベート劇と言いたいような側面もある。とにかくどの人物も喋る。理屈っぽいわけではないのだが、曖昧なものをそのまま受け流すようなところが極端に少ない。とにかくやたらと生真面目なのだ。人物それぞれ個性もばらばらに色づけされているが、生真面目さは全員共通するし、物事の捉え方や進め方なども判で押したように一緒な感じだ。そういうところも、すごく抽象的。二回観るとはっきり感じるけど、この関係というか、この人たちで成り立ってる世界全体、現実っぽい自然さがあるようでいて、ほとんど無い。お悩み相談室の再現VTRの、デラックス版とさえ言えるかもしれない。


というか、おそらくは本気で作られた、お悩み問題再現VTRなのだ。本気、というのは何かというと、お悩みという一般化されていて共有されきったある種の問題のかたちをした形骸を、演技する生身の役者を使って、本来ならきわめて結果の見えにくい、予測のできない方法によって試す、というようなことで、いわばおそろしくありきたりなことをおそろしく不安定な方法で再現するというようなことになり、するとそこに不思議と、映画というものがもつ固有の魔力が、それら全体を包んでいるようにも思えて、たぶん「ハッピーアワー」という作品の強さはそこにあるのではとも思う。


ただし自分としては「ハッピーアワー」は二度目で少し印象が変わった。最初に思ったほどの作品では、なかったかも、という感じ。前述と矛盾するようだが、やっぱり物語がやや暗くてありきたりすぎるというか、これだとあまりにも演技者の演技しか観る物がない感じになってしまう気がした。


逆に初見で「これは…」と思わなくもなかった「親密さ」だが、こっちは二度目の鑑賞で一度目よりも良いものに感じられた。やはり大きな物語の枠として、近隣国の戦争とそれに世相が影響されていく過程が色濃く描かれているのが大きいと思う。この(捉え方によっては、なんとも薄っぺらい効果にしかならないかもしれないような)設定が、四時間掛けて繰り返される登場人物=役者たちの、生々しさと生硬さの強烈な融合とも言うべき振る舞いと不思議な融合をみせて、とても独特な味わいを残す。


「親密さ」の登場人物たちも、あきれるほど見事なまでに、生真面目というか性格に遊びがないというか、それでいてけっこう感情的だし、自己陶酔的だし、とにかく単なる若くて痛い人たちばかりで、その登場人物たちによって演じられる劇中劇も、やはりまたどこかの若者たちの、どうしようもなく色々上手くいかないことで、それらが入れ子状態になって、やはりゴツゴツとした演技実験のような、自然さと不自然さの中間地帯の緊張感を維持し続けつつ進むのだが、しかしそれらを、流れていく時間が大きく包んでいって、それぞれがやがて、関係も個人の固執も思いも希望も、それぞれほどけてばらばらになって、たぶん消えてしまうという、そのことが最後にいたって、危険なまでの肯定感で描き出されているように感じられた。いやもちろん、「俺はたしかにそれを見ていた、それをおぼえている」というメッセージは伝わってくるのだが、でもそれは二人の思い出的な小さな枠の中で儚いがゆえにキレイなのであって、これ、結論としては、ある意味最悪なのに、なんだろうこのキレイな終わり方は、このビシッと決まって終われた感じは、いったい何だろうと感じながら、たぶん「まあ、こういうもんだよな。人なんて、こうだよね。」という反動的納得感が、自分の中に強かったからだと思うが、ここにはやはり、ある種の感動はあると思った。


そして先ほど、京都発、三宅さんの動画を見た。・・ああ、神々の姿だ…。思わず笑ったが、声の響いている空間の気配というか、その場の匂いのようなものが感じ取れるように思えて、何度かくり返し見た。