牯嶺街少年殺人事件


風邪っぽい。が、もう席を買ってあるので出掛ける。角川シネマ有楽町で「牯嶺街少年殺人事件」。以前観たのは、十年も前のこと。この映画を当時、どんな風に受け止めたか、ほぼおぼえてないし、そもそも、あらすじレベルで忘れていたので、ほぼ初見と言って良い。


しかしまあ、疲れた。四時間座ってるのは、風邪引いてることを差し引いても相当な苦役であった。背中全体バキバキの状態で席から立ち上がった。風邪だが、とりあえず酒を飲みたいと思った。飲みながら、妻相手にまとまりのないことをべらべら喋った。


とにかく、出て来る役者が一人残らず全員いいということ、そんな、こんな子供たちが、こんな…という戸惑いと、いや、そりゃそうだ、まさにこうなのだ。これが現実なのだ。これでしかないのだ、という胸の高鳴りの伴う納得が、細かくせめぎ合うような感じだ。


小明という名の少女。あんな少女が、あれほど何もかもを、さまざまに捌いて、色々とわかった上で分配して、あれほど何もかもを抱え込んだまま、平然と澄まして歩いているということ…。それだけで、もうこの映画の計り知れなさ、おどろき、得体の知れなさのほぼすべてがあるというか、別に物語上、小明という少女に何かが起こったからとか、そういうことではなく、別に何もおきない。いや起きる。のだが、誰かがいました、その身の上に、何かが起きました、そういうことではなく、ただ単に、そのままでその人物がいるというその揺るがなさ。そこにこちらが、図らずも狼狽する。砂をかむような、胸の高鳴るような、そのようなこれが、現実、得体の知れぬ、はじめて感じた現実らしさというもの。


最初に滑頭とのやり取りから、次から次へと出て来るさまざまな人々の、ひたすらないがみ合い、小づき合い、牽制のし合い、闘争と調停、駆け引き、戦略、読み合い。


マジか?と云いたくなるような「ハニー」の立ち姿。暗闇、雨、幕末の闇討ちのような襲撃。たびたびあらわれる日本家屋と抜いた刀身。銃。


斬り、撃つ。殴る。走るわ逃げるわ、吊るし上げるわ、何もかもやる。…なにしろ誰が誰でどういう組織カテゴリーのどういう人だったのかほとんど整理できないまま、どばどばと展開していくのを見ているしかないのだが。


しかし歌う、歌えるのだ。ステージのシーンだけ、マジックが効いてる。おお、、と心がざわめく。せわしなく動き回り歌のパートだけ戻ってくる。


ギャング、ヤクザ、浪人の仇討ち、それらがある意味、年端も行かぬ子供たちによって、同じだけの真剣さで、いやもっと全然別の、任侠的とかの記憶をほのかに漂わせたまま、しかし本来落ち着けるはずの気持ちの行き場は欠落したまま、ただただ、ダラダラと水がこぼれてあふれて、それを見ているかのようにして、延々と時間が流れていって、最後はなにか、ああ取り返しのつかない時間の経過をみていた、それだけだったという、呆然としたものだけが残る、ということなのだ。


テープでもいいと言ってた。何度も巻き戻し、繰り返す。


試験に受かって、そうだ。昼間部に入ればいい…。


教会で待ってるお姉さん。キリスト。


なんか、高校時代を思い出すのだ。たぶんみんな僕の前に、三十年前に全員、実在していた人々だ。


まあ、もうしばらく色々と思い返して反復していましょう。