再び代官山町


代官山のアートフロントギャラリーで「浅見貴子-彼方/此方」を観る。松の絵の二つあったうちの小さいサイズの方など、実に良かった。すごく堅牢な感じがある。絵肌とか物質的な意味ではなくて、描かれているものと、描かれてはいないが画面内に在るものとの、それらぜんたいの、関係のありかたそのものの堅牢さ。というのか、ふてぶてしさというか、むっちりとした厚み。立ち昇る匂いのようなもの。


新作(gray net)はすごくきれいで、かなり長く観ていた。網目模様。ネット越しというかグリッド越しのイメージ、というイメージを、そのままモチーフにしたような、しかしまだ目的もプロセスもまだ定まりきっていないというか、あえてまだ確定し切らないようにしているような感じだ。いつもの、黒と強くコントラストを形成して視線を跳ね返すような鮮明な白が(gray net)の画面内には存在せず、全体がグレー調に覆われているのだが、そこに生じている各色彩はある抑制というかルールの中で樹木のシリーズにあらわれるものよりも俄然活き活きとしたものに思えた。また多湿度の感じ、あまり乾いてないまま定着させた感じ、版画とか転写系操作のもつ手切れの良さとかすっぱりとしたことではなく、ゆっくりと進行する時間っぽさを優先したような、しかし小品なのでひとまずはお試し的に小さく観てみましょうという感じで、それでもけっこう延々と観ていた。


大作の桜の絵は、画面に大きな余白があって、余白があると、描かれているものと余白との関係を考えてしまうのだが、それでも観ていると結局は目が、描かれている領域の中で溺れるように右往左往してしまって部分的な範囲にて長時間過ごすことになるのがいつものパターンだ。絵のすべてを観ているとはとても言えない。結局ある部分を観て、そこにしばらくとどまり、そのあとほんの少し視点をずらして、隣り合ったまったく別の場所に驚きを感じて、またそこに留まって…そういう流れをひたすらくりかえすばかりだ。会場で絵を観るときの、その絵というのは、その会場に長い小説が一遍置かれているのを読むのと変わらない。観客は、会場でその小説を適当に開いて読む。それで、面白いとか、よくわからないとか思うだけだ。よくわからないと思った人は、もしかして別の箇所を開けば、面白かったのかもしれないし、その逆もありうる。別の日に同じ箇所を読んだら、また違う印象をもつかもしれない。その意味では、後になっても、部分というか、そのときのその一瞬しか記憶になく、それがどの絵のことだったのか、どの絵を観ていたときのことだったのかさえ、おぼえてないこともある。


帰宅後、蔦屋書店で借りたDVDを観る。バーバラ・コップル「ワイルドマンブルース」、デレク・ジャーマンヴィトゲンシュタイン」「カラヴァッジオ」を観る。デレク・ジャーマンを観るのは、今日がはじめて。すいません、若い頃は、こういうの面倒くさくて…。「ヴィトゲンシュタイン」は思ったほどではなかったけれども、「カラヴァッジオ」は、おお、これすごいじゃん、ゴダールのパッションより前でしょ?と思ったら、そんなわけがなかった。パッションは1982年、カラヴァッジオは86年か。しかし「カラヴァッジオ」はほんとうに当時の光っぽい感じがするというか、麦藁のハンモックでティルダ・スウィントンと彼氏が抱擁しているシーンなど、ほとんど明るさしかないような光の感じとか、そうそう、あのわかりやすい明暗よりも、むしろこういうほぼ全部が明な世界、褐色のざらついた光に包まれているような世界の方が、よりカラヴァッジオっぽいというか、そういう感じが出ていて、それだけでもかなり良かった。「ヴィトゲンシュタイン」は相当弱いというか、これだと忘れ去られる類の作品ではないかという感じがする。たぶん最後の「ツルツルな世界とザラザラな世界の境目で、それが彼の不幸の始まりだ」的なナレーションが、ヴィトゲンシュタイン解釈の一例として今でも有名なのかな?そういうことなのかどうなのか知らないけれども