景色の正面


太陽から自分がいる位置までの間に、どれだけたくさん、ものすごく大量に、重なっていると思っているのか。今いる場所からでしか、それは実感できない。いや、実感はできない。少なくとも、今見ている景色は、今この視点のままでしか、固定できない。じっと動かずにいると、そのまま静止して見えている。それが、太陽からここまでの、とんでもなくすごい重なりの結果だと言うのだ。少しでも動くと、それが変わってしまうのだ。変わってしまって、それはそれでやはり別の、ものすごい重なりがあらためて生じてはいるのだが。


絵なら、変わらないのだけれども。実際の景色だと、変わってしまう。


その見ているものを、視界の筒状にくり抜いて、そのまま保存できたら、そしてその筒が透明なら、それを横からのぞいたらどうなっているか。でもその筒の長さは、太陽から自分までの距離と同じだけの長さだ。その時点で長すぎて、つまりやってることは、空を側面から見たらどうなるかという話と同等だ。


見ているときは常に、正面から見ているしかないというか、正面から見て、はじめて見ている対象を捉えていることになる。もし側面からであれば、自分もそうだし、見られている対象も、自分が見られているということを意識できまい。


ということは、あの輝く空と、ゆれる葉と光は、見られている対象として、見られていることに意識的だということか?


それは、そうだろう。もし意識的じゃなければ、あれほどきちんとキレイではないだろうし、第一あれが自然的で無意識的なら、角度を変えただけで、それまでのイメージがいきなり消滅するなどということがあるだろうか?どこから見ようとも、キレイさは同じはずだと考えた方が、自然ではないか?


意識しているから、意識された位相があらわれているし、そうじゃない位相は稼動しないのだ。そこを踏まえるべきだ。


景色が主体的に美的であろうとしている、と言いたいわけじゃない。美的というのが、すでに何かの稼動によって支えられているのだ。その稼動は、我々の側の問題なのだ。


それなら、私の、気持ちはどうなるのでしょうか。


気持ちだけ、受け取っておきたい。