自己実現


演技力、それは力だ。それがあるというのは、すごいことだ。自分が、そういう能力が低いから、よけいにそう思うのかもしれない。


世間一般で云われるコミュニケーション能力というのも、演技力のことではないかと思う。要するに、自分の身体を使って、何かを伝える力のことだ。


漫才やコントは面白いけれども、ああいう面白さを作り出す力は、もちろん台本の出来も大事だろうけれども、やはり演者の身体コントロールの巧みさ=演技力ではないかと思う。


なぜ「芸人になろう」と思うのか。おそらく「俺って面白いかも」と思うからだろう。「俺って面白いかも」と思う理由は、人が自分を笑ってくれるからだ。人が、ある程度自分が意図したように笑ってくれるのを経験したからだ。


自分が意図したように自分の身体を制御して、表情や身振りや話し方を表出させる。その一連の動きで、何がしかの面白さが表現されて伝わるだろうと見込んでいる。そしたら実際に、ある程度その通りに相手が反応する。


これは、すごいことだ。ほとんど、全能感すら感じるほどの、すごい体験に違いない。


漫才で、ボケが何かを言う。ツッコミが、あきれたような顔をする。面白い漫才だと、もう最初のそれだけで、とてつもないレベルで何かが成立してしまう。ただの、それぞれの表情と表情だけで、はっきりと大きなイメージの枠組みが出来てしまう。ある強力な何かを伝えてしまう。


単なる表情でも、ふつうはそれを自分の思ったようにコントロールなんて出来ない。少なくとも、自分には出来ない。困った様子、驚いた様子、怒ってる、喜んでいる、みたいな、そういう心の中の状態を表情や態度でわかりやすく表出させることができるというのは、すごいことだ。


伝えるのが上手いというのは、必要以上に伝える力があるということになり、その力を使えば、相手に対してイニシアティブを取ることも可能だ、みたいなことでもある。自分がそう思ってほしいように相手に思わせる、果ては何もかもを、自分の思うようにさせる的なことにも、繋がるのかもしれないが、まあ、フォース(能力)の効能は、使い方によって如何様にも変わるものだ。演技力そのものは、それは無いよりあった方が良くて、自分が嬉しいときに、嬉しい表情をして、それが相手に伝わるという、それ自体はもっともシンプルに、喜ばしいことだし、それを実現させる力なのだと思う。


僕の場合はおそろしいことに、この効能が逆に作用する。何でもないときに、あるいはそういう心持ちではないときに、なぜか相手から「嬉しそう」とか「怒ってる」とか言われるわけだ。つまり、自分の気持ちや感情が、身体的な表現の結果としては一切相手に伝わらず、却って訳のわからない、思っても見ないような信号ばかり送るのだ。それをこちら側からの発信情報としてほぼ制御できてないのだ。


つまり、不器用ということだ。音痴というか、演痴なのだ。ボールを投げてもあさっての方向に飛んで行ってしまうとか、目的地に向かってるはずが反対の地点に着いてしまったとか、走るのが遅いとか、字を書くのが下手とか、絵のセンスがぜんぜん無いとか、そういう類と一緒で、身体コントロールの下手さとしての、演技力の無さということだ。



芸人でも役者でも歌手でも、ある意味スポーツ選手も政治家も、社長とか実業家も、ホテルマンもレストランの給仕も、店舗販売員も、自分の身体を使う職業の人だ。自分の身体を使って他者の前でパフォーマンスする系な人たち。その能力すなわち演技力に長けているということ。


僕はいまだに、ひそかに憧れているというか、やってみたいと思ってる職業があって、とはいえそれは子供の考えのように、まったく具体性を欠いたぼんやりとした憧れめいた気持ちでしかないのだが、そそれはレストランの給仕なのだが、そんなのは若い頃にアルバイトではやってたし、仕事内容のイメージは大体わかってはいるのだけれども、そういうことではなくて、お客様ひとりひとりに対して、ベストなサービスを尽くすみたいな、劇場におけるパフォーマーとしての、そういう給仕をやってみたいのだ。


つまり、役を演じたいのだ。馬鹿な話だが、僕は仕事をするという事に、いまだに子供のような憧れをもっているらしいのだが、それはつまり、仕事をすれば、その役を演じられるから、という幼稚な原始的感覚をまだ持っているからだと思う。


でもさすがに、既に自分でよくわかっているのだが、僕には演技力はない。演技の能力がゼロなので、それは不可能なのだ。自分の思ってるようなことは、自分には出来ないということなのだ。


というか、自分の思ってるようなイメージは、自分の思ってるような演技力がなければ、実現不可能なのだ。


これは僕の人生における、一番の蹉跌と言って良いのだと思う。まさに「僕の人生、こんなはずじゃなかった」感の、もっとも大きいやつだ。