オランピア


マネの「オランピア」をはじめて観たのは、高校生のときだろうか。たぶん高校の美術の教科書に載っていたような気がする。


はじめてあの絵を観た、とは、どういうことか。


素朴な気持ちで書いていくと、まず、女性の突っかけサンダルというものを、はじめて見た、という事になる。


サンダル。もちろん、見たのははじめてではないだろうけれども、しかしあんな風に、足に引っ掛かってるサンダルを見たのは、はじめてだった。


セザンヌの言葉「空が青いということを発見したのはモネだ。あれ以来、空は青いのだ。」だとしたら、サンダルがあんな風であることを発見したのはマネで、オランピア以降、サンダルというものは、あんな風なのだと思う。


吉田秀和「マネの肖像」に書かれた以下の箇所

この絵がサロンに展示されたとき、クールベが「何と、これはトランプのハートの女王じゃないか!」と叫んだのと、それに対し、マネが即座に「ところが、あなたの理想ときたら、ビリヤードの球なんですからね」と切りかえしたという話も、有名すぎて、いまさら引用するまでもないけれど、真実をぴったり言い当てていたという点で、《オランピア》についていわれたすべての言葉のなかでも、最も色褪せない評価に属する。


この言葉、僕は知らなかった。すごい気持ちいい…。

私たち、短足人種はこういう点にあまり目が行きとどかない。そう思って、もう一度《オランピア》を見直すと、もともと持っていた、この女性が未成熟というか、まだ未発達の、幼稚で、何か足りない女という印象がいっそう確固としたものになってきた。なるほど顔の表情はシニックなまでにさめている。しかし、肉体は稚いとまではいえなくとも、美しいプロポーションをもつまでに成熟しきってない感じなのである。彼女の肉体が貧弱だというのではない。肉付きも悪くない。ただ、全体として稚いのである。稚い娼婦のシニシズム。これが、見るものの欲情をいっそうそそり、それがまたはねかえって、公衆の憤激をいっそうはげしいものにした。と、考えたら間違いだろうか?


たしかに、幼稚、というか、どことなく日本人的な感じがあるとは思う。いわば日本人的エロさなのだ。


僕がその裸身をはじめて観たときの印象。その印象、その感触をいつまでも忘れたくないと、いつも思っているのだが、それはともかく、それを観たとき、顔はまず、頬骨の張った、面長とはいえないしっかりとした顔立ちだが、まあ美人だと思った。胸の乳房は張りがあって立派だと思った。


しかし、どことなく女性的ではないと無意識で感じていた。たしかにそうだ。しかし、はっきりとエロ感はあった。アングルやティッツイアーノとは全然違う何かがあるとは思った。少年的というか、たしかにまだ未成熟とは言えるだろう。そして、そこが日本人的エロに重なるのだろう。


組み合わされた足とその先に突っかけられたサンダル。そのフォルムが、まるで刃物のように感じた。「刃物のように」と言葉にしてしまうと、嘘になるのだ。観ているときは、そんな言葉が頭に浮かんではいない。しかし、事後的に刃物という言葉をあてはめるのがそれなりに適当なような気になる、ある領域を、あるスピードと勢いをもって駆け抜ける動きの印象というのか、柔らかさに対して衝突が避けられないような切迫感というのか、なにしろそういう気持ちが、一瞬心の中を占めていることは確かなのだ。


でも、男が女の裸を見たら、そんなよくわからないことを、ひたすら色々と考えているものだ。だからそういうときのイメージの錯綜はふつうのこと。そしてとにかくこの人は、その場に、普通に座ってる、というか、寝そべってるのだ。驚きは最終的にはそのあたりに集まってきて落ち着くのかもしれない。


しかし、それにしてもだ。もうちょっと思い出してみろ。これほどはっきりとアウトラインばかりが目に焼きつく理由は、陰影表現がほとんどなされてないからだ。つまり平面的なのだ。たぶんはじめて、しういう意味での平面的な絵を観たとも言える。描き足りてないように、最初は見えたものだ。あるいは図版の印刷精度が悪くて、ほんとうはもっと克明でリアルな絵なのではないかとも思ったりしたかもしれない。なにしろこれでは、背景の黒と裸体の白だけで、絵としてはあまりにもスカスカではないか。


しかし、スカスカなのに、それで良いと、…まあ、高校生なんてバカで、しかも思い込みが強いから、美術学生なんて一ヶ月くらいで、この前までわからなかったはずのものを、もう夢中になって死ぬほどカッコいいと感じていたりするものだ。


何のコンテクストも無くそのままいきなりはじめて観たら、それが娼婦なのかどういう女なのか、少なくとも今の時代になって観たら、そんな事はわからないし、それはどうでもいいことだ。かつて実際に、そういうことがあったのかな、とか思うくらいのことだ。かつて実際に、そういうことがあったわけではないかもしれないし、そこは何とも言えないですよね的な、イメージにまつわるマネ的な面白さは、それはそれで、また別の話だ。今はただ、そこにその人がいると思っているだけだ。


いた、感想はほとんどそれだけだ。それで足りている。