過程


天気は良い。妻が風邪でダウンした。この時期、風邪引く人多い。危険な季節だ。


吉田秀和全集17巻「調和の幻想・トゥールーズロートレック」より「紫禁城と天壇」を読む。吉田秀和も、開高健も同じように読む、と言ったら、あまりにも酷いか。


書き言葉を、読者が読んで受け止めるまでの流れ。つまり、投げられたものが対象にぶつかって、何かに成るまでの一連のシークエンス。それらがかぞえきれないくらい無数に折り重なって巨大な一個のかたまりになっているのが、一冊の書物だとしたら、読者はそれら一個一個のシークエンスを順々に再現確認しながら全容に向かうということになり、本から受ける印象とはくりかえされる再現確認の結果がもたらす印象だろうが、僕にとっては開高健吉田秀和も、投げられたものが対象にぶつかって、何かに成るまでの一連のシークエンス、その過程がありありと露呈されていて、結果というよりもその過程に強い磁力を有しているような文の書き手という感じなのだ。たしかに吉田秀和の場合、手数は少なく、読点による各駅停車感というか、文節一個一個で進んでいくリズム感は、開高健とまったく異質ではあるのだが。


矢作俊彦「真夜中にもう一歩」も、やはり同じように読めてしまう。たとえば書き出しはこうだ。

確かなことが、ふたつだけあった。目の前に坐ってトム・コリンズを飲んでいる男があまりに馬鹿なことを頼んでおり、彼が私の古い顔見知りだということだ。


書くべき事、に対するアイロニカルな韜晦というか照れ隠しというか、それを始めるにあたって、少し斜に構えないわけには行かないという気分、それを読者と共有。その約束事で成り立たせる。なんでそんなもってまわったような、回りくどいやり方をするのか、それもやはり、結果よりは過程を露呈させるためではないかと、いまの自分には思える。


下記の横浜の風景描写など無駄がなくてカッコいい。韜晦の効いたパズルゲームのような登場人物たちの対話と、このような職人技の描写が組み合わさることで、作品全体が構築されているのだ。

午後になっていた。
陽射しはとげとげしかったが、空気が中国美人の鼻柱のようにつんととり澄まし、銀並木の陰ではときおり暑さを忘れるほどだった。山下公園の木立ちを掠めてやってくる幽かな海風が、舗道の上を掃いてすぎ、空の外れや湾内に泛かぶ係船浮標の上では、一足早く九月の第一週がはじまろうとしていた。ヘルム・ブラザース商会の石段に密生した凌霄花はすっかり花を落とし、八月最後の陽光もそこでは顔色がなかった。

東京湾に、獅子が口笛を吹いているようなかたちで突き出た横浜の中区は、そのほとんどが小高い台地からなっている。湾の見える丘は北東の一部、緑にもえる丘は気休め程度、あとの大部分は住宅に埋めつくされ、元の市電の停留所を中心に、幾つかの町をつくっている。丘の上の町、谷底の町、斜面の町、窪地の町。そのうち何ヶ所かでは、英語の看板がいやに目につく。ユダヤ名前の表札ばかりのところがある。金髪と真っ白い脚が跳びはねるテニスコートがあり、しみったれたキャベツ畑がある。五星紅旗ひるがえる煉瓦屋の隣に、ロシア人が経営するナイトクラブがある。このあいだまで米軍がゴルフをしていた競馬場跡の広大な草原は、迷路のようなスラムにとりかこまれている。医科大学が墓と火葬場に挟まれてあったとしても、別に含むところはないのだろう。


・・・午後から泳いだ。駅前で地酒の露店が出ているのでちょっと寄る。俄か作りのテントの下で、ボロイ椅子に座って冷酒を。別に家で飲めばいいのに、わざわざこういうのに寄りたくなるのはなぜなのか。


帰って夕食後に観たDVDは成瀬「銀座化粧」。「稲妻」でもそうだが、ロケ撮影された風景を観てるのが大変楽しい。