やれた

群像9月号の保坂和志の連載「鉄の胡蝶は記憶の歳月に夢を彫るか」二回目を読む。「やれたかも委員会」フリーダウンロードで(途中まで)読む。(https://note.mu/yoshidatakashi3/m/meb18e27a76d0

美人を見かける、そこに美人がいる、というとき、そこには常に「こんなはずではなかった」感がつきまとうのか。その人物が美人だというだけで、いきなり今この現実が相対化されてしまう。というより、今この現実を相対化させてしまうような外見のことを、美人というのか。

過去の記憶として、自らの欲望が勝手な曲線を描いているのと、目の前の相手が勝手な論理で行動を推移させているのと、両方が非同期で動いているのを、もう一人の私がどうにかしてどこかに交点を見つけようとする、いやそんな余裕はない。なすすべなく、両者の行く先をおろおろしながら見守って、運を天に任せて、ああどうか、神様こんなとき誰もが私のようにか弱き者なのでしょうかと、なすすべなき姿のままじっとしているばかりなのか。

やれたかもしれない、そんな甘美な過去に「なにテンパってるんですか?」の冷静な批評は爽やかで目が覚めるようでとてもありがたい。こうしてますます、男は年齢を重ねるにつれて女性の美人性に対して手も足も出なくなって、ただ受身でいるだけのようになっていくとも言えるが、年齢に関係なく男性は最初からそれに対しては受身でしかいられないというのもある。恋愛小説は、発生するアクションに作品内の重点が掛かっていて、それに至るまでの厚み(アクションするか否かの逡巡などの厚み)が内実になってくる、だからアクションが起こると胸が高鳴る。不可逆的な何かを目の当たりにする緊張につつまれる。