ぶどう

小説というものを一房のぶどうだと考えてみた場合、全体的にいい格好をしているのも大事だけれども、それよりも食べたら口に運ぶ一粒の果実、そのひとつひとつがそれとしてどれだけ美味しいのか、それこそが重要なはずだ。そのぶどうを作るときには、最初はぶどう一房のイメージを思い浮かべるだろうが、作るときは果実一粒から作っていくしかない。順々に作っていって、粒状の果実の集積が、少しずつ一房のぶどうらしくなっていく。しかし果実一粒の美味しさの必然性とポテンシャルに手を抜かないでその作業を続けるのはけっこう難しい。とりあえずスカスカでも果実の形をしてさえいれば、ひとまずぶどう一房の構成要素としては成り立つのだ。作り手は作ったものを自分で食べて美味しいかどうかを自分で判断するのが難しい。食べてみて、まあまあだ、ぜんぶ美味しいわけではないかもしれないけど、ぶどうとしてそこそこサマになってるし、全体的にはこんなもんだろう、などという結果がもっともおそろしい。ほんとうなら、ぶどう一房のことなど考えなくてもよくて、単にすごく美味しい一粒の果実をいくつか作ってそれらを繋げてたら、それで結果的にぶどう一房だね、ということならそれが最高なのだが、それはそれでなかなかそうも行かず、果実一粒の出来がとても良いけど、それらをくっつけ合わせている作業が見え見えだったりしては、これではぶどうじゃないよね、ということになる。ぶどうではないのに、果実のひとつひとつが美味しいのだとしたら、それはぶどうとは別の美味しさなのだろうし、ぶどうの形をしているなら果実のひとつひとつが必ずぶどうとして美味しいという保証もない。いずれにせよ一度組みあがってしまうと、後から細かくあれこれいじっても、元の状態よりもけして良くならない、良くなる可能性がきわめて少ないというのは、わりと絵画制作にも似ている。結局、次は上手くいくかもしれないと思いながら、はじめから何度もやり直してみるしかないかもしれない。