新橋、愛宕、上野

健康診断受診のため早朝の新橋へ。検診内容は、身長、体重、腹囲、採血(脂質、肝・腎・膵機能、糖、痛風)、便、尿、視力、眼圧眼底、聴力、血圧、肺機能、胸部/腹部X線、心電図、腹部超音波、検診となる。毎年そうだが、検診センターの担当医はほぼ女性ばかりである。胸部X線担当と検診の内科医だけは男性だったが、過去には女性だったこともある。担当医ばかりでなく、この施設に働く人はほぼすべて女性のようだ。いつも思うが、ここで検診を受けているときの心の不思議な平穏さはなんだろうか。もう手遅れ、いまさらジタバタしても無駄、仕方がない、諦めの境地、といった気分に心が満たされている。そして各フロアで無表情的な笑顔を貼り付けた女性たちの機械的な言葉にひたすらしたがい続ける。静かなるマゾヒズムの湖水に頭まで沈みこんでいるかのような午前中である。

二時間ばかりで検診が終了し、施設をあとにする。午後から髪を切るための予約を入れてあるが、まだずいぶん時間が余っている。そういえば昨日、会社の上司から「西新橋に検診に行くなら、帰りに愛宕神社に寄っていけばいいじゃないか」と言われていたのを思い出した。ウチの上司は、なぜか神社仏閣を巡るのが好きな人で、それも建造物とか歴史とか信心への興味からではなくて単に何となくご利益がありそうな、何となく手を合わせて拝んでおきたいような、そういった場所へまめまめしく巡るのが好きという人で、御朱印はきちんと集めてるらしいが、それをなぜか自分だけでなく「気がむいたら行ってくれば?」などと部下にも薦めたりもする人で、僕も今までは「はいはい」と返事だけして適当に無視していたのだが、今日は時間もあるし、たまには言われた通りに、散歩がてら行ってみるかという気になった。

愛宕神社は近かった。五分も掛からずに、目の前に境内まで続くあの長い長い階段があらわれた。とりあえず一定のペースで普通にひょいひょいと上っていったが、上りきってかえらはさすがに相当息が切れた。ここに来るのはたぶん今回で二度目。いつだったか忘れたが前にも来たことがある。わりといつでも人がいる神社だが、今日はことのほか多い、と思ったら結婚式の最中だったようで、本殿の奥の方に白い着物のお嫁さんの姿が見える。人ごみを避けるように左手の方へ歩いていくと、正面に建物があるのに気付いた。NHK放送博物館と看板に表記がある。ああ、そういえば会社の上司から「愛宕神社のすぐ脇に、NHK放送博物館があるんですよ。あそこは入場無料で、けっこう色々と面白いのが展示されてるからね。でも一時間以上は掛かるから、時間ないときだと全部観れないと思うよ。」とか言われていたのを思い出した。ウチの上司は、なぜかそういう場所を巡るのも嫌いではないのか。しかし博物・陳列物への興味や放送の歴史への興味とかではなく、単なるもの珍しさでそれらを観ていたりもする人なのだと思われるのだが、それを聞いたときは僕も「へえ、そうなんですか。じゃあ、それも忘れてなければ、かつ時間がすごく余っているようなら、行くかもしれませんね…」とか適当な返事だけして無視の勢いだったはずなのだが、気付くと今日はすべて上司のお奨めルートの通りに行動しているな、ちょっと恐ろしい展開だな、などと考えつつ当博物館に入館した。

あまり真剣に観ているわけではないにせよ、展示物はどれも面白かった。つまみのいっぱい付いた古い機材というのはモノフェティッシュの快楽を激しく喚起させるので観ているだけでも面白い。戦前のラジオとか蓄音機とかも、録音録画機材も面白い。冨田勲のシンセMOOGIIIの実物なんかはまるで大正時代の箪笥みたいでかなりの迫力である。あと8K映像のシアタールームもあって、200inch規模のプロジェクターと22.2chの音響を体験できる。巨大なスクリーン上でドローン撮影の紅葉たけなわの京都府の俯瞰図のどこを見ても完全に細部までくっきりとピントが合っているとか、三十三間堂内の千手観音たちが隅から隅までぴたーっと静かに光沢を湛えて佇んでいるという、高解像度の究極みたいなやつ。サウンドもスピーカーがスクリーン裏におよぶまで何十個も取り付けられていてこれでもかとばかりに方向や奥行きの表現として音が構成され、なるほどたしかにこれは凄いかもねとは思った。とはいえ、驚くほどの凄さというわけでもない。ウチのテレビなんか十年以上前のプラズマの似非ハイビジョンであるが、でもそれで全然不足も感じないし何の支障もないし、8Kは全く別次元だとも思わない。別に今のままでもどっちでも…という感じだ。

正午を過ぎて家の最寄り駅まで戻り美容院で髪切ってから妻と待ち合わせして今度は上野へ移動。藝大美術館の所蔵作品展などを観る。併設展示で、様々なテクノロジー媒体による保存をテーマにした展示もあって、学生の卒業制作作品の媒体として、三十年近く前からじょじょに増えてきたVHSカセットやMOやCD-ROMやDVDその他リムーバブルメディア類の、展示を通じてそれらの保存と再生に関する考察が為されているのだが、そこに展示されていた自画像作品などで、それこそ九十年代初頭の景色を延々映し続けた映像作品としての「自画像」などもあってこの映像には思わずじっと見入ってしまった。それが三十年近く前であるというだけで、何となく目を離せなくなってしまうのだった。ありえないことだが、もし当時の「自分」がこの景色の中にふと映りこんだら、ふっとフレーム内を横切っていったとしたら、そう想像すると何とも落ち着かないようなそわそわした気分になるのだった。(この映像内に僕はいないだろうが、この映像の元になっている景色の中を、当時の僕が何度も何度も横切っているのは間違いないのだ。)「私がいなかったはずの景色」の不思議さ、「ちょっとずれたタイミングであれば私もいたはずの景色」の不思議さ。私がいなかった世界も、私がいた世界も、どちらも結局は不思議さから逃げられない。只の思い込みに近いような、たよりない記憶でしかないのかもしれないという驚きから逃れられない。

それにしてもVHS録画の映像はどうしてもノイズが混ざるが、このノイズが三十年前という時間の表現にどうしても見えてしまうところはある。仮にそれが、高解像度デジタル映像だったらどうなのかというところだが、NHK博物館で観たあの映像も、どこがとは言えないが、やはり何かある種のクセというか、8Kであることの「ノイズ」のようなもの、高解像度ならではのノイズが、映像に含有されているのではないかという感じもある。どのような媒体であろうがどれほどの精度であろうが、テクノロジーによって記録されたイメージは裂けがたくノイズを含むのかもしれないし、それこそが「あのとき」と「今」との落差を示す印になる。その印が一切ないイメージとは、すなわちそれは過去であると観る者に認識できないイメージとして立ちあらわれるしかないかもしれない。

湯島ですこし寄り道してから帰った。日本は季節ごとに美味しい食材が大体決まってる。秋ならキノコとかある種の果物とかある種の肉類とか、魚なら秋刀魚、カツオ、それだと結局、和食だろうが洋食だろうが魚料理だとメニュー内の季節のおすすめは当然秋刀魚、カツオになる。それが旬だから仕方が無いけど、家でも外でもほんとうに連日そればかりだ。しかも帰りにスーパーでまたカツオを買うのだから我々も相当筋金入りである。