ひかり、降りそそぐ

目黒の自然教育園に来たのはたぶん十年ぶりくらいじゃないかと思ったけど、調べたら六年前だった。思ったよりも昔だと「時間経つの早い!」と思うし、思ったよりも最近だと「物忘れ激しい!」と思う。どっちにしても年齢のせいにしたがる思考停止感ありの悪い傾向である。ただしこの公園に来たときの前回の印象がほぼまったく記憶にないので(このブログの当時の日付でみるとけっこう色々と詳細に書いているにもかかわらず…)、すっぱりと忘れていることはたしかだ。

僕は近視なので遠くが見えないのだが、めがねをかけるのは、美術館、映画館などでの鑑賞時、視力検査時など遠くの壁面や離れた場所に掲げられた何かの字や図柄を見るときくらいで、ふだんは裸眼のままで過ごしている。会社でもほぼ裸眼である。だからたまにめがねをかけると異様に世界が変わるのでまずそれに驚くのだが、今日は公園内に入ってめがねをかけてみたら、大げさではなくほとんどVR映像を見ているのと変わらないような視覚体験になってしまう。囲まれた園道を歩きながら両脇に繁る木々の連なりを見ただけで、近景~中~遠景と奥行きが形成されていて、歩くにしたがって全対象がこちらに向かって迫り来るかのごとく移動する。中距離にあったものが近距離に移動してくることの驚きは相当なものである。ありとあらゆる角度からおびただしい数の事物が近付いてくるので、どれに意識を向ければ良いのか判断できなくなる。葉の一枚や蜘蛛の巣の糸の陽に反射する光までが物質感をともなって迫ってくる。いくらなんでもこれは、このめがねはおかしいのではないかと最初は思うが、次第にこれが通常の視覚なのだとわかってくる。ふだん、如何に何も見えないまま過ごしているかを実感する。

 目黒駅まで戻って反対側の目黒区立美術館まで歩いて「村上友晴展 ―ひかり、降りそそぐ」を観る。美術館が、その作品を成り立たせるために本気を出している、その気合が伝わってくるような素晴らしい展示だった。ミニマルとはこういうものだ、すみずみにまで神経を行き届かせて、一点の濁りも乱れもない、ほとんど錯覚や幻視に近いような微細な出来事にも、一々気が付くことの出来るように、環境が起こりうる可能性にたいして最大限の配慮を行き渡らせている。

たとえば静謐や厳密の感じが過度に演出されているとか、あるいは禅とか茶の湯の世界みたいな感じとかとはぜんぜん違う。また墨という素材の担う意味がことさら強調されているわけでもない。あくまでもミニマルがきちんと展示されているということだ。ある意味80年代を迎える前の求道的な日本現代美術が感じさせる雰囲気の代表とも言えるかもしれないが。しかし作品の選別から壁に対してどの作品をどのように展示するのかまで、厳密に計画されて実行された感じは漂ってくる。画家の仕事の沿革紹介的な側面もきちんと為しつつ、しかし余計なことは一切しない、過不足も注意深く避けられている、作品同士が響き合い空間に共鳴しあうことが最大限に尊重されている感じで、会場にすばらしい緊張感が息づいていて、すみずみまで研ぎ澄まされていて、会場を歩きながら胸がかすかに高鳴る。

めがねを外して作品を観た。村上友晴の作品を観るとはその画面の表面の出来事を許される限りできるかぎり近くに顔を近づけて目をこらして視ることでもある。それは遠くの出来事でもあり、ごく近くの出来事でもある。近視では見えないものと、老眼では見えないものとが共存する。僕はめがねなしで、なめるように表面を観る。微細としか言いようのない鉛筆の筆致を追う。それはもはや線とも色とも言えない、ただし行為がなされたことだけはたしかだと言えるような何かである。だとしたらこれは絵の表面に行為の跡がびっしりと覆っているだけの物質なのかと言ったら、そうではなくてこれは絵画で、なぜなら絵画の空間、鉛筆という素材が、あるいは油絵の具のランプブラックが、墨が、ニードルの削り跡が感じさせる質は、そのまま空間なのだ。それはギリギリ直前の何かだが、しかし何もなかったことにはできない。それはのぞきこめる穴で、絵画で、矩形の内側の出来事なのだ。

めがねをかけて再度作品を観た。めがねで見ると表面は消えて全体的なもの、概観的なものがあらわれる。これはこれで、やはり絵画を観ているのだ。これほどミニマリズムでありながら、矩形のフレームはフレーム外との接点においてかすかに扇動しているようで、それは表面の絵肌の凹凸が小刻みにフレームを揺さぶっているからだ。