想像力としかくい穴


年始のご挨拶ということで、京王線の某駅で降車し、妻の実家へ徒歩で向かう。この駅前、この道を、結婚して以来、何度歩いたのかというと、それは回数として、これまで妻の実家にお伺いした回数として、正確に数えられる。なぜなら正月とか、決まったときにしかお伺いしないからで、いつもすいませんという事ではあるが、それにしても年月の経過が早いというか、ついこの前お伺いしたばかりですよね、もう一年ですか、いやあ早いですよねえ的な、そういう感じではあるのだが、まさに十年一日な、本日の元日も快晴ですという、もう歴史とか嘘でしょみたいな、昨日も今日も別に一緒くたでいいでしょという日差しが降り注いでいたが、時折吹き付ける風は意外に冷たかった。で、あいもかわらず僕は実家までの道をおぼえていない。蕎麦屋の角のところまではおぼえているのだけれども、そこから細い道に入っていくところを、いつもおぼえられないのだ。でも今日はさすがに、こうしてここに記述している以上、もうあのポイントもクリアしたので、たぶんもう行けるはず。きっと平気。しかし今日は妻がちょっと別の道を行きたいというのでそれに従う。妻にとっては幼少時代の、今の記憶からしたら所々あやふやなところもあるくらいには曖昧な記憶のなかの、なつかしい道で、途中ある区画や他人の住まいが、数十年前のなにがしかの思い出の発動装置でもあるような、そういう場所を経ての道程で、もちろん僕にとってはまったく未知な道ではあるのだが、一年に一度来るだけの道のりの途中が少しちがうルートだったとしても、それまでの記憶にさほど大きく影響はあたえず、なるほどそうなのか、そうなんだねと頷きながら相手のあとを追うだけだ。他人の記憶のアウトプットされる場所に立ち会うというのはいつもそういうもので、データの流れをただ見やるだけみたいなものだ。


妻ご実家で最近恒例のスターウォーズ上映会となって「ローグ・ワン」をblu-ray鑑賞。blu-ray画質の緻密さと、テレビの高性能+コントラストの強さとで、映画の内容云々よりもその猛烈な光の表現ばかりに心奪われる。そのテレビのコントラストの強さは、その後でテレビに映っていた「笑点」での山田君の着物がほとんど内側から発光しているかのような赤色だったことからも明らかなのだが、そんな高解像度で高出力なテレビによる映画作品の、とくに主要登場人物が帝国軍と戦う惑星に着いてからの、日中の光と緑の鮮烈さが、うわあこれこそ、一月の光だなと思わされるくらいの、まったく混じり物なしの純度百に近いような透明感の空気で、何しろ近景、中景、遠景のそれぞれの感じが、こんなの映画でもドラマでも見たことないよというくらいの、異様なクリアさであった。映画そのものは思った以上に戦争映画ぽく、クロサワ的武士な風体だったり香港カンフー的だったり、そういう意匠がより高度にサンプリングされている感じで、殺す前にもっと色々かっこいいシーンも、やればよりたくさん撮れそう。


夜の帰路、月が狂ったように丸く大きく、それこそ4k映像のようなわざとらしい振る舞い方で光っていて、周囲に浮かぶ雲の輪郭を、ぼんやりと夜空に照らし出していた。


帰宅後、テレビで「大人のピタゴラスイッチ〜想像力としかくい穴」を観る。年末年始のテレビのくだらなさをすべて消し去るような、手持ちのカード全てガラッとかわるような、オセロの黒をすべて白にするような、とてつもなく素晴らしい内容に感動する、、とまで言うと大げさかもしれないけど、でもこれはやはり、素晴らしいというべき。ここには古典物理学の、エネルギー法則の、技術開発の、製造業の、エンジニアリングのすべてが、歴史的な人間の営みのすべてが含まれていて、それでいてそんなことに一切頓着しない、ただそのままの、なんでもない物理方則の、光の恵みと同等の、ありふれた奇跡、人のよろこびの根源的なものへ届くような、そのような運動の軌跡がはっきりと映り込んでいたといいたい。そんな風にいいはりたい、などと思いながらほぼ空になった安物泡ボトルの口をひっくり返してグラスに注ぎながら、一人で力んでいた。