確か


埼玉の実家へ向かう。山手線で、池袋から西武線で、延々移動。長い道のりである。しかし電車は比較的空いている。三が日の日中だと、毎年もっと混みあってるような印象があるけれども、今日の電車は空席も目立つ。ちょっといつもの正月と違う雰囲気の気もするが単なる気のせいかもしれない。


実家最寄り駅に着いたら猛烈な寒さ。風がほとんど刃物で身を切るような厳しさ。荒涼とした畑の広がる田舎道を歩く。この変わらなさ、あらためて、いやな景色だと思う。二十年以上前に、飼い犬を散歩させながら、この道を歩いたことを思い出す。やはり冬の寒い日だった。頭を地面にこすり付けるようにかがめて、背中を丸めて、首に取り付けられた散歩紐をぐいぐい引っ張って歩く犬の姿を、上から見下ろしている自分がいる。その様子がありありとよみがえってくる。あの犬が生きていた時代はたしか1992年頃から2007年頃まで。僕が犬の散歩をしていたのは90年代半ば〜後半の数年間というところか。あの犬のことを今も記憶に留めているのは、今や我々家族と当時近所付き合いのあった人達だけだろう。妻もかろうじて知っているはずだ。姪はまだ生まれてないからとうぜん知らない。よく考えたら父親もあの犬のことは知らないのだな。しかし、それでふと思い出したが、父親は父親で、当時の自分の住まいで、また別の犬を飼っていたのだ。あの犬も、僕だけは知っていて、今もおぼえているが、しかし他には、家族の誰もおそらくあの犬のことは知らないはずだ。あの犬をおぼえてるのは今やこの世で父と自分だけだろう。


しかし何が確かなのかと考えたとき、それを言えば、あれらの犬が実在していた確かさが云々というよりも、あの当時の時間が実在していた確かさを、犬の記憶が証明してくれるような感じでもある、そのように思われる。彼らのイメージは、あの当時の時間と切り離しては考えられないようなものだ。


家に到着して、まずは途中コンビニで買ったカップの日本酒を燗酒にしてもらって飲んだ。温かさが骨の奥にまでしみ込む。ははは、これがやりたくて、寒いのを我慢して歩いてきたのだ。他の酒は冷蔵庫に入れてもらうが、入りきらないのは廊下に出しておいて、それでも冷蔵庫と室温と、ほとんど変わらないね、と。


妹夫婦が姪を連れて来る。そしていつもの通り宴会。ほんとうに十年一日。何も変わらなくて我ながら呆れる。年と共に姪だけがどんどん大きくなる。姪の子。彼女もきっと、今このときが実在する確かさを図らずも今後の我々に証明してくれるのだろう。