モリカズ


東京国立近代美術館講堂で「モリカズについて、いま語れることの全て」(講師:岡粼乾二郎)。以下は個人的備忘録でこの通りの話がされたということではない。メモを取ってたわけでもなくすべておぼえているわけでもないし省略した部分もかなりあり僕が勝手に付け加えている部分も含むだろう、と、あらかじめお断りする。プロジェクターを使って様々な作品図版を次々と見較べながら、とくに後半は作品と作品の近似性とか関連性についての話が中心で、それはそれはもう、目も眩むようなというかまるで複雑に入り組んだ事件の調査において何の関連も無さそうな複数の物的証拠同士を鮮やかに結び付けていく探偵の推理過程を聴いているような感じで殆ど息を呑むような面白さであった。


二十世紀を迎えるにあたりヘルムホルツの物理学や音響生理学の発見、出来事というものには目に見えない領域があり、音や色を感知するときそれは空気の振動であり色の違いによる光の反射法則の結果であるという事を、漱石とも親交のあったクマガイモリカズは既に知っていたということ。すなわち二十世紀モダニズム芸術が準備されるにあたりその時点での最新情報は得ていたということ。


クマガイモリカズは東京美術学校を主席で卒業している。同期には青木繁だの山下新太郎だのが居るにも関わらずトップの成績である。しかしその後、作品点数はさほど増えない。ほとんど描いてない時期もある、そして、七十歳あたりで爆発的に作品が開花する。


その作家を世界的にどう位置づけるかというときに、何を見なければいけないのか。その作品が、たとえばマティスに似ていたとしたら、それはどういう事なのか?マティスが偉くて、それより後で似た絵を描いてる場合は追従なのか?似てなければ、すなわちその形式が世界初なら、それはどういう事なのか?たとえば1930年のマティスの作品と、1970年代のクマガイの作品が似ていたとき、何が起きているのか。あるいは、クマガイの絵とミルトン・エイブリーの絵にいくつも似たようなイメージがあるが、これはどちらかがどちらかに影響を与えているのか、いないのか。似ている、似ていないではなく、後先でもなく、このような近似が発生するのはなぜか?を問わなければいけない。


日本の近代の画家は、たとえば萬鉄五郎など1917年にキュビズム的作品「もたれて立つ人」を発表しているが、日本において一点そのような作品が生まれたとしても、その作家がそれを自分のテーマとして十全に展開し得たか?と言えば、それは厳しい。どれほど新規なイメージの移植に成功したとしても、それを展開させることができない。展開どころか、十年ももたずに縮小再生産になる例がほとんどである。肝心なのは、スタイルをいち早くリリースするとうことではない。それをテーマとして十全に展開させるには何が必要なのか?と言ったら、土壌である。クマガイは生涯、自らの土壌を耕し続けたと言える。クマガイの作品が時間や場所を越えて他作品と近似するのは、クマガイに土壌が形成されているからであり、このように時間や場所を越えてその土壌の一部を図らずも共有してしまうような事態が、最前線を張る同時代的な作家の作品間に起こりうる。


具体的に、クマガイの作品が何かと似ていたとする。クマガイはその時点でさの作家や作品を知っていたかもしれないし、逆もありうるかもしれない。しかしそのようなクマガイに先行するスタイル例に着目する必要はなく、結果的にクマガイの作品がその他の作品よりも洗練されており絵の質としてすぐれていて、形式が自分自身のテーマにまで昇華されていることを目に認めればよい。


高齢になっても自作を展開するためには、絶対に教養が必要である。


サクラの枝に鳥が止まっている絵がある。絵の周囲に白い矩形のイメージとして描かれているのがサクラかもしれないが、サクラではないかもしれない。サクラは、この鳥の喉元から胸にかけての、この模様のことかもしれない、これがサクラの形をしている、ということかもしれない。これはウソという鳥だが、ウソがサクラと一緒にフレームに収まっている絵というのは、じつはおかしいとも言える。なぜならウソは、サクラを食べてしまう(食害する)鳥だからだ。だとすると、やはりこの絵にサクラは描かれてないのかもしれない。いやサクラは目に見えるように描かれているのではなくて、このウソの身体(腹)の中に、サクラがあるのかもしれない。そういう読みも可能だ。というか、クマガイというのは、実はそんなのばっかりなのだ。


轢死体、水死体、「陽の死んだ日」と、クマガイは死や死者をテーマにくり返し描いた。「ヤキバノカエリ」で実現されたこととは何か。絵の中の登場人物はいずれも目鼻口が描かれておらず、何を見ているのかわからないが、何かを見ているようだ。色彩は一様で一見奥行きを否定するようであるが、左の少女の服の色など、同系色でありながらほんの少し彩度を変えることで、あたかも彼らは画面内すなわちその世界から少し浮き上がって存在しているかのようだ。そして、そもそもこの絵、この光景を見ているものは何(誰)か。そこに、視点があるような感じがしないか。中央に白く輝くような白い骨壷がある。この骨壷の中から、このフレームの外側に位置付いた視線が、この景色全体を見ているように思われないだろうか。もしそうだとしたら、この世ではない別の世界について、この作品は触れ得ているようにも見えないだろうか。



(質問者:なぜクマガイの作品はかわいい感じがするのか?)その答えはいくつもあるだろうが、まずクマガイの作品は大きさが、その作品に相対した際に、鑑賞する自分の顔、頭部が、作品のフレーム内よりもやや大きくなるくらいに設定されていて、その状態で絵を観るとき、あのような内容の作品を、より目を使って観ようとするとき、フレームはほぼ消えて気にならなくなる。すなわち作品を観始めたときから、作品サイズとかフレームが問題にならなくなる。ある意味で、もっとも小さなサイズで、もっとも大きなイメージを生成できるやり方だとも言える。そのようにしてあらわれるイメージはイメージとしてのみ、あのクマガイの独特の感じとして記憶される。