抽象の力


昨日の話が面白かったので、岡崎乾二郎の「抽象の力」論考を読んでみたら、これもまたものすごく面白くて、今日はこれを読んでいたら、それだけで日が暮れてしまった。


http://abstract-art-as-impact.org/jp-text.html


とりあえず、下記に引用する最初の箇所だけでも感動的。なぜ感動的なのかわからないが、抽象への取り組みに人間が託しているものを考えたときに、なぜか心が揺さぶられる。それは、現状の美術史が体系化できていない部分だし、体系化されることの意味もあまりない。百年以上前から、今に至り、そしてこれからも人間はまだ当分、見えないものに対しての試みを続けるはず。

一般に近代美術史は、抽象芸術は1910年から14年にかけて出現したと特定している。

 しかし、もし抽象芸術の定義が、作品が外部世界に対応する視覚的参照物をもたないこと、つまり作品が外在する対象の姿を写していないことにあるのであれば、すでに書いたように抽象芸術を生み出すことになる問題群は、はるか以前から( 西洋に特定されることもなく)用意されていたといえるだろう。視覚上の姿の類似性を追いかけることは必ずしも、その対象の実在性を把握することには繋がらない。その視覚的現れと認識されるもののズレ、反対にいえば、特徴的な視覚的現れ=姿を持っていないものでも芸術作品は表現することができる。

 夏目漱石の文学論における《F》にせよ、T.S.エリオットの《客観的相関物》にせよ、エズラ・パウンドの《イマジズム》にせよ、その要は、元々まとまりをもたない諸々さまざまな感覚、感情の集合を、一つの外的対応物を(仮設しそれを)通してまとめ=代表し表現することにあった。つまり表現されることではじめて、とりとめのない感覚、感情の集りは一つの特定の概念として定位されるということである。いうまでもなく、こうした思考にはシャルル・ボードレールから、フェリックス・フェネオンに至る、象徴主義(そしてアナーキズム)の問題群が継承もされている。見えるかたちとして、すでに成立している表現(代表)はいかなるものであれ、偶有的、仮の姿(仮象)でしかありえない(必然的ではない)。いいかえれば見える姿としては代表し表現することのできない、はるかに広い潜在的な領域こそが実在する。その実在はいかに把握されうるか。その能力が象徴あるいは抽象に託されている。

 その意味で抽象芸術は必ずしもキュビスムの展開として出現したのではないし、むしろ( ピカソやブラックを考えれば明らかなように)キュビスムからは抽象は直接的には派生しえない。反対にキュビスムこそが、抽象が発生する前提である表象システム=可視的な形象として何かを表現、代表するという仕組みへの懐疑、不信を共有し、その同じ土台から分岐して派生したと見るべきだろう。

 

この後の、恩地孝四郎の話とか素晴らしい。