わたしたちの家


観たのは昨日(14日)の夜だが、今日付けで書いてしまうが、渋谷ユーロスペースで「わたしたちの家」を観て、おお、これはなかなか凄かった、でも、こういう感じの話、ワリと見たことあるような気もするけど、どうだろう…と思って、でもよくよく考えたら、こんな妙な映画を、たぶん一度も、観たことはないはずなのだ。こんなに平然と、まるで説明なしにシレッと「ありえない時間と空間」を映画化してしまうというのは、やはり凄いことに違いない。あまりにも普通に実現されてしまったので、かえって普通に感じられるというか、今までやられて来た事の徹底して洗練された感じ、みたいに思ってしまったが、たぶんそれは僕の勘違い。たとえば小説だけど保坂和志の「コーリング」とか、柴崎友香の「千の扉」とかで、同じ住居空間をフレームにして物語が展開するというのはあった。しかしそれらは、この映画で起こっている事態とは違うと思う。


とりあえずこの映画、母親と娘の親子が暮らす家がある。食卓があって、台所があって、向かい合って夕食。かたや、記憶を無くした女性がふいに知り合ったもう一人の女性と知り合って、その人の家に居候することになり、そこで暮らす家がある。この家は、母親と娘の親子が暮らす家と一緒の家である。物語はこの二組の人物を中心にして交互に進む。


同じ家に暮らしているというのは、親子の暮らしと二人の女性の暮らしが、何の説明や理由もなく、単に重なっているという事である。彼女らはお互いを知らない、というか、ある時間とは別のもう一つの時間の流れのような、裏側1ミリだけずれて広がっているもう一つの世界のような、何しろこの現実とは違うもう一つのような、自分が現実で彼方が幽霊の世界、いやこちらももしかしたら幽霊、みたいな、ちょっと理屈に拘っても仕方ないまま、そのまま受け止めるしかないような感じで話が続いていく。


相当たくさんの謎と兆候がちりばめられているのに、それらはそのまま、何かの解決に至るわけでもなく、出来事はそのままだ。こちらとあちらが、ほんの一瞬だけつながって、結果的にあちらからこちらへ、何かが渡されるような出来事も起こるのだが、それが、何というわけでもない。(終盤の花瓶が割れて…のところ「漂流教室」のナイフとかストレプトマイシンを入手する下りを思い出してしまった。)僕は、あのおじさんが、せりのお父さんなのではないか、と思ったのだが、それはちょっと違うかもしれない。まあ、他にも全編色々と深読みが効いて面白いのだ。


それにしても、たまたま直前まで岡崎乾二郎「抽象と力」を読んでいたばかりなので、面白い同期だなあと思っていた。何がかというと、「抽象と力」にこんな引用があって、それを思い浮かべていたのであった。

二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行の食違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである、すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に介入することができるのである。しかし、透明性は単なる視覚上の特性以上のもの、更に広範な空間秩序を意味しているのだ。透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。  ( ジョージ・ケペッシュ『視覚言語』Geogy Kepes Language of Vision 1944、松永安光訳、『コーリン・ロウ建築論撰集マニエリスムと近代建築』所収「透明性、虚と実」より重引 1981)


この映画の、あの感じが「透明性」と呼ばれるような何かではないだろうかなどと、色々な場面を思い起こしては考えてしまう。


21:00から観始めた映画が、終わったのが22:30頃で、その後30分くらい映画監督と評論家のトークショーがあったのだが、舞台に上がった二人を見て、監督がつい最近、院を修了したばかりの若い女性であることをはじめて知った。なんとなく、撮影されたカメラから感じられる登場人物へのまなざしに男性の視線的なものを感じていたのだが、それは僕の勘違いというか、僕自身の視線だったのだろう。


終わったら23:00で、帰宅して昨晩寝たのはいつもよりかなり遅い時間になった。


今日は睡眠不足だったけれども、体調的には比較的良好。