戦場の子


図書館に行ったり、夕食の食材を買ったり、何でもない只の休日。夜になって、どうでもいいはずのことがなぜか気になってきて、ネットで調べ始めた。小学生の頃の思い出、当時存在したはずの、ゲーセンにあった「戦場の狼」というビデオゲーム。あれってどんな感じだったっけ?あれを、はじめて目撃したとき、つまり三十年以上前だが、なんというか小学生の頃の僕として「あ、これはモラル的にまずい」みたいな感覚をおぼえたような気がする。もちろんモラルなんて言葉は当時知らないのだが、モラルというか、道徳というか、PCというか、何しろそういう世間一般的に配慮すべきもの、軽はずみに扱うべきでないもの、腫れ物的、壊れ物的、そういう表現、そういう態度みたいな、そういう感じが、一応世の中にはあるとか、そういうのは子供でもぼんやりわかっていて、それを目の前のこのビデオゲームの映像は、ちょっと踏み越えてしまっているのではないかみたいな、そんな印象を抱いた、そのもやッとした感覚だけ、かすかに記憶に残っている。銃を撃ちながら走り回って、弾が当たると、周囲を動き回っている敵のキャラクターは、両手両足をばたばたさせながら仰向けに倒れて消失する。この「死の表現」は、まだ原始的だったビデオゲームが、また一歩表現の質を前に進めたという感じもしたし、それがほかならぬ戦場での死の描写だったことが、なかなか禍々しくて印象的だったのだ。もちろん当時ハリウッド製の暴力戦争映画は花盛りだったのだが、いよいよビデオゲームもその表現力を当然のごとく養い力を蓄えてきたのだと、そのとき実感したものだ。


まあ僕は幼少時から、戦争ゲームに強く反応する子供だったとは思う。エポック社の「魚雷戦ゲーム」とか、熱にうなされるくらい欲しがったし、友達の家で初体験したときは歓喜で全身が震えたし、地雷を仕掛けて戦車を引っ繰り返すやはりエポック社の「タンクコマンド」とか、もっと大人向けのボード型シミュレーションゲームの「ミッドウェイ海戦」など、ほとんど意味分かってないのに夢中になってやったし、田宮模型の第二次大戦ミリタリーシリーズを小学生の小遣いで一体どれほど買い求めたのかわからないが、ドイツ軍の深々とした暗緑の軍服の色など今でも思い浮かべることができるし…どれも三十年から四十年近く前の話で恐縮ですけれども、今となって思えばああいう、遠隔操作で何かを仕掛ける系のものにことのほか強い反応を示す子供だったのだろう。そう自省すると、すごく納得する。まあラジコンとかテレビゲームとかもそうだし、バイクとか車とか何でも、男の子なんて大概、皆そうだろうけれども。


あともう一個、印象的だったビデオゲーム、あれ何だっけ?と思って、躍起になって検索した結果タイトー社「フロントライン」というタイトルだったことが判明。1982年らしい。これも好きだった。これも、ちょっとモラル的に、ああ、、と思うところがある。撃つと相手が、仰け反りつつ倒れる。その倒れ方が、如何にも撃たれた死ぬ、という倒れ方で、その簡略化典型化がなんとも知れぬ罪深さをたたえていて、そういう後ろめたさは子供でも充分に感じるものだ。また、なぜかそのゲームのキャラクターは自分も敵も赤い唐傘帽子のようなものを被っていて、それだけ見るとモチーフとなってる現場は完全にベトナムという感じで、しかし当時の僕はベトナム戦争とかも知らなかったが、何しろテレビとかで見る有名な戦争ではなくて、もっと泥臭い感じの、西洋の白人ではない別の地域の人達同士が、ジャングル的な場所で戦ってるやつみたいな、そんな大雑把さで背景を想像していて、そこにもある種の惨さを感じてもいたが、しかしそのゲームは面白いのだ。何しろ歩兵としてプレイヤーはフィールドを歩いているのだが、途中から戦車に搭乗する。すると敵も戦車で来るので、戦車線が繰り広げられるのだ。しかも自分の戦車が被弾し、やられてしまっても、急いで降車すれば、自分自身はまだ歩兵としてプレイ続行なのだ。こういうシステムはおそらく今ではありふれているだろうが、当事は画期的だった(ように思うけど、よくは知らない。)。でもプレイヤーのライフが破壊されることの延期は、正しく戦争の装甲化・機構化をなぞっていて操作も複雑になり手数も多くなりほとんど何をやってるのかわからなくなっていくような、そういう予感というか、後戻りできない地点を前にしている感触を無意識に味わっている小学生、といった感じだったのかどうなのか。