hamburg '72


キース・ジャレットの「hamburg '72」を聴く。こんなアルバムがリリースされていたことを最近始めて知った。昨晩もそうだけれども、キース・ジャレットを聴く経験自体が、我ながらおどろくほど久しぶり過ぎるのだ。メンバーはベースがチャーリー・ヘイデン、ドラムがポール・モチアンである。全体の印象としては「びっくりするくらい全部がキース・ジャレットだった」という感じだ。大げさではなくこのアルバムには70年代キースをあらわす要素のほとんど全てが、ぎっしりと詰め込まれていると言って良い。一曲目のピアノの信じがたく繊細で粒だった旋律や、終盤ソロになるところなど一瞬三年後のケルンコンサート(1975)や前後のソロ作品群がぼわっと浮かび上がるかのようだし、二曲目や終曲の管楽器の奔放さや果てなく続く感じはルータ・アンド・ダイチャ(1971)などの取り留めの無さを思い出させ、そこから続く三曲目のモロにアメリカンフォークっぽい感じはやはりルータ・アンド・ダイチャの後半への展開やアメリカンカルテットの一連の作品やフェイシング・ユー(1972)を感じさせる。このときのキースはまだ二十代。既にこれほどまでにすべての要素が揃っていた、ということに驚く。


また一曲目のポール・モチアンが刻み始めるのシンバルのリズムと音の質感には、ほとんど陶然とさせられる。ポール・モチアン。この録音からさかのぼること十一年前、ビル・エヴァンスと、スコット・ラファロと共にヴィレッジ・バンガードで後に歴史的な記録となる演奏を残した。「マイ・フーリッシュ・ハート」、あの、あたかも真夜中にかすかな光を受けて妖しく浮かび上がるかのようなブラシを聴かせた、あのポール・モチアンである。そのシンバルの震えと広がり、硬さの柔らかさ、音の手触りであり肌触りであり匂いであり、味わい、物質感、金属たちが囁き合っている。金属がお互いに話し合っているのが、自然で当たり前、そういう世界が現実にある、音が聴こえるとは、その場に居るということ。


キース・ジャレットは、じつは僕は、二十代の頃にほんとうに散々聴きましたのです。あまりにも聴きすぎたので、ちょっと何となく、その後、僕のなかではややうんざりというか、今や少し嫌な思い出というか、今後はもうなるべく近付きたくないと言っても差し支えないような気分も、無きにしも非ずだったのだが、久しぶりに聴いたらやっぱり良かった。というか、そんな個人レベルの良い悪いの話じゃなくて、しっかりとした磐石の良さ、ここをわからないなら聴く側の耳が悪いのだというレベルでの良さ、質の高さがちゃんとある、そういうのは、昔がなつかしいとかの話ではなくて、ちゃんといつでも変わらず良いのだ。