天国はまだ遠い


濱口竜介「天国はまだ遠い」を、帰りの電車の中でiPhpneで観た。わりと泣ける話なので電車で観るべきではなかった…。演技という行為の不思議さがとてもシンプルかつ鋭い問いかけとして観る者に迫ってくる感じで、濱口竜介監督の追求しているテーマの一貫性を強く感じさせられる。以下、ネタバレするので、あらかじめご承知いただきたい。


幽霊(女)がいる。
幽霊が見える人(男)がいる。幽霊と男は対話できる。
幽霊が見えない人(女)がいる。幽霊は生前、その人の姉だった。見えない人は妹。
姉が見える人に憑依すると、その人の身体を経由して妹と対話できる。


妹は男に、姉についてインタビューをさせてほしいと頼み、男は了承」する。インタビュー中、男は「直接話してみたら」と言い、姉を自分に憑依させる。しかし妹は、霊の存在とか、そういうのは信じないし、男の幽霊が見えるという言葉も信じてない。だから、姉が憑依して、男の身体を借りて妹に話しかけても、姉は男の芝居だと思って、憑依された相手の態度がリアルであればあるほど、男に対して強い憤りを感じる。強い憤りを感じながらも、涙が止まらない。


それは、姉と妹だけが知っている事実を、男が話すからか。それもあるかもしれないが、それだけではない。憑依されたその男の態度、口調、表情、そして話す内容、それらがおそらく死んだ姉としか言いようのない数々の符丁に満ちているからで、外見はまったく別人でありながら、目の前の存在が死んだ姉としか思えないという状況が生じている。


そこで妹は一旦憑依が解けた男に「キリのいいところまでもう一度お願いします」と頼む。妹が再度憑依し、姉妹は再び対話する。対話のあとソファから立ち上がって、二人は抱き合う。やがて妹が「カット」と声を上げて、そのやり取りを自ら終える。


「私は信じてない」という部分は変わらないのに、目の前で見てると泣けてくるし、抱きしめたくなるから、憤りや不整合感への不安・不満は一旦置いて「とりあえずキリのいいところまでやる」という判断が、これこそが、映画を作る/映画を観るという行為そのもののように思えた。しかしシチュエーション終了後「いいドキュメンタリーが撮れたんじゃないかな」という男に対して「使えるわけないじゃない」と妹はこたえる。その言葉にはなぜか、どことなく、満足感のようなものが含まれているようだ。それは最良のかたちでフィクションを体験したこと(とても納得できるような演技を自分がしたこと、あるいはとても素晴らしいと思える演技を観ることができたこと)の満足感、のようなものだっただろうか。そしてこの作品を観た僕はもちろん「素晴らしい」とか言って、その妹の感情に共振している、というか「演技する/演技を観る」の入れ子状態で妹とほぼ相似形を成しているのかもしれない。