千年


図書館で借りた竹西寛子『「あはれ」から「もののあはれ」へ』を読む。
掲載されている小倉百人一首とか古今和歌集の幾つかを、きちんと落ち着いた気持ちで、一句一句丁寧に読み取ってみる。風景描写のうつくしさ、というか風景を見る目だけがある。
風景Aの状態によって、風景Bはこうであるとか、A=Bだとか、見て、思って、それを詠う。
人間も出てくる。心も。そういう、一般概念が出てくる。千年前ですでに。
これはやはり、きれいだと思う。桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 浪ぞたちける
さざなみが立つのだ。水のない空にである。
こういうのを、今から千年以上も前に、誰かが思った。そして書いたのである。
当時と今と、ほぼ変わらない「主観」があり「風景」があるということ。
冷たさと熱さ、硬さと柔らかさ、静と動の二律から何事かが発生するということに、はてしない驚き、足元に何の支えもないとてつもなく高い場所に自分が宙吊りになっているような、恐怖感と爽快感のないまぜになった思いがする。
あるいは有名な、世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ
こういう感覚も、千年以上前からあった。誰もが感じることのできる感覚としてだ。
ということは人は元来、今ここを夢ともうつつとも見分けがつかないのがデフォルトだと考えた方がいいので、
うつつにばかりこだわるのはある観念への固執なのだろう。
しかし和歌は大抵一読しても意味がすぐにはとれない。それは古語だからだろうと思っていたが、研究者も同じ句を何度でも何度でも読むのだ。そんな当たり前のことを、本書を読んでなさけないことにいまさらのように知る。