乱れ雲


一昨日の夜のことだが、DVDで観たのだった。司葉子の義理の姉である森光子は、妻子ある加東大介と不倫の関係で、この二人の間柄は仲良くベタベタしてたり大喧嘩したり、また仲直りして寄り添いあってたり、かなり愚かでいやらしい間柄として描写されている。それは司葉子の目にも好ましくは映ってないのだが、一人身になった司葉子は女手一人で旅館を切り盛りして行き場のない自分を雇ってくれた森には感謝しこそすれ、その生活に対して偉そうなことを言えた身分ではないしその気もない。しかしよそよそしい態度にはなる。それは自分もやはり今、心の奥底で同じようなふしだらでいやらしい関係を、そのまま良しとしてしまいたい、自分を阻む道徳を押しのけて心の赴くままに行動したいという気持ちを煽られているように思うからなのか。すなわち自分は、もうすでに加山雄三に惹かれてしまっている、それを自分に認めてしまうか否かの境界線上に立っている。森と不倫相手の加東が醸し出すいやらしさを、司は肌で感じている。所詮私も、あれと同類なのか、血は争えないのか、嫌悪の思いは司葉子を俯かせ、口をきっと閉じさせ、ひたすら目前の仕事に集中することで問題から目を逸らすことしかできない。


加山雄三はほとんどリアリティゼロで、毎回「偶然」司葉子の前にあらわれる。司葉子がわざわざ東北に行ったのに加山雄三も東北に転勤になるし、森の旅館で働く司葉子と偶然再会するし、客室に茶を運んだらそこには接待先の客とホストの加山雄三だし、町の喫茶店でも偶然会うし、山道を歩いていても偶然会う。つまりそのたびごとに狼狽して挙動がおかしくなるのを必死に堪えてかすかに悶える司葉子を、映画の観客たちは見てよろこぶみたいなことになるのだが、司葉子もさすがにこれだけあからさまに連続攻撃されると、わりと途中からはあっさり、さばさばしたような感じになって、意外にひょいっと方針転換したようにも見えてくる。十和田湖でボートに乗ったあたりでは、既に司葉子の方が完全に本気モードになっているのが感じられる。発熱した加山を看病する司葉子のシーンのヤバさ。言われるがまま、加山の手に手を添えて、あらためて再びしっかりと握り直す仕草のきわどさ…。姉と不倫相手がベタベタしているところに朝帰りした司葉子があらわれて、ああもう私もいよいよだ、きれいもきたないも一緒になっちゃったみたいな、それでも平然を装って自室へ戻る。もう後戻りできない線を越えた。何事かが行われたわけでもないのに、確実にそうなってしまった。そして翌日、再び加山雄三の元へ訪れる司葉子。階段のふもとに立って加山を見上げる、微笑みをたたえて、真っ黒の洞窟のような二つの瞳でこちらを見上げている顔の凄まじさ…。この顔のすごさは、はじめてこの映画を観たときから、ずっと忘れられないのだ。


最初のキスシーンはたしか山菜採りの山の中、次が二人で最後の夜を過ごす旅館である。あの旅館での、固く抱擁しながらの長々としたキスシーンのエロさ。偶然に交通事故で重傷を負った誰かとその妻、まるで白昼夢のようなシーンを経て、やや侘しい最後の晩餐と、加山の独唱。映画としては大体そこで終わり。