小説形式


目が覚める。薄暗い朝。冷房が効いてると思って顔を上げると、そうではなくて窓が少し空いていた。台風の風音が低く鳴り響いている。夏の鬱陶しさから一時的に開放されて快適だけれども、この薄暗さとかすかな肌寒さは、やがて到来する夏の終わりと秋のはじまりをふと予感させて、今年もまたあと何ヶ月かしたらやってくるはずだなと、しばらく意識下に沈んでいた暗くて寒い季節の記憶が思い起こされる。


退社後、下北沢B&B柴崎友香×滝口悠生」のトークへ。新しいB&Bに来たのははじめて。もっとも旧B&Bに行ったのも二度くらいだが。アイオワ大学のIWP参加作家二人によるトークで、一昨年が柴崎友香で今年は滝口悠生がこれから行くとのこと。約十年前には水村美苗が行って、そのあと「日本語が亡びるとき」を書いた。柴崎友香は先日「公園へ行かないか? 火曜日に」を刊行したばかり。すでに読み終わった妻が早く読め読めと再三督促するので僕はこれから読む。


事実を書くことがエッセイで虚構を書くことが小説。ではないということ。この私が出てきて、事実に即した出来事が描かれていたとしても、小説として書かれているということ。散文。形式としてはそれだけで書かれる、など。実際世間でエッセイだとされている文章に「小説」を感じるケースはある。たまたま今日読んでいた関川夏央の本の中で、須賀敦子について書かれた箇所があって「彼女の作品は、記憶を掘り起こして一人称で再構成するその手際から「エッセイ」と呼ばれることが多かった。しかし、それらはみな小説であった。知的な、柔和な外見とは裏腹にとても気強く、孤独を恐れない女性が日本と欧州で重ねた、時間的にも地理的にも、そして精神的にも長い旅そのものを描こうと試みた連作短編集であった。」と書かれていた。もちろん「あれは事実ではなく虚構である」という意味では全くない。そのとき読み手が何をもって「小説」を感じているのかは、上手く言い表わせなくて「エッセイは誰かに宛てられてる感じがする、小説は不特定の誰かあるいは想像の先の遠くに向けて書かれている」みたいな話もあったかもしれないが、それだけで説明できたとは言えない気もする。そもそも小説の場合、語っているのが誰で何のために?がわからない不思議な形式で、というのは以前別の場所で、柴崎友香さんが言っていた気もする。


前述の関川夏央の本、須賀敦子について語っている箇所がとても素晴らしい。もう少し引用しよう。ちなみにこの引用は今日のトークと直接は何の関係もありません、

彼女は見かけよりも、あるいは本から読みとられる印象よりもずっと強情な人だった。友情をもとめながらも孤独を恐れない人だった。しかしそれ以上に「うっかり人生がすぎてしまう」ことを自らに許さない人だった。そういう人だからこそ、堅牢に積み上げられたヨーロッパ文明のただなかに、日本人がまだ外国へ出ることさえ困難だったあの時代に、ひとり分け入っていく勇気を持ち得たのだった。
 私はいまもはっきりと彼女の魅力ある笑顔を思い出す。と同時に、石畳を蹴って歩くその意志的な靴音を、あざやかに聞きとることができるのである。
 晩年のある時期、私は朝日新聞の書評委員会で彼女と同席していた。帰りには「黒塗りの車」つまりハイヤーがひとりひとりに出るのだが、彼女はそれに乗ることをいやがった。「ああいうものに平気で乗るセンスとずっと戦ってきたのよね」と私にいった。意味ははっきりつたわるが、日本でずっとすごした人ならなんとなく避けるいい方である。むろんその言葉は気負いなくさらっと発声されたのであるが、私は少し驚きつつ、温厚な表情の裏側にひそむ強いなにものかにはじめて触れた気がした。
 彼女は「お上」や「当局の方針」を憎んだ。それは、そういうものにふりまわされる経験をへた戦中派の意気地のようであった。マスコミであれ作家であれ、エラそうな態度をとるものも、ヨーロッパ文明の厚い堆積のただなかに迷いこんだように思えて気弱になることがいく度かあった。そういうとき、彼女に力を与えたのは、サン=テグジュペリのつぎのような言葉だった。
「建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いているものは、すでに勝利者なのである。」(戦う操縦士 堀口大学訳)
 ローマの学生寮のマリ・ノエルという修道女が一九五九年に語った言葉もまた、くじけかける彼女を、精神の深いところで支えた。
「ヨーロッパにいることで、きっとあなたのなかの日本は育ちつづけると思う。あなたが自分のカードをごまかしさえしなければ」

(「豪雨の前兆」関川夏央 116頁)


帰りの千代田線は空いていた。夜の十一時、雨はほぼ止んでいたが、かすかに冷えた風が、力を抑えて溜め込んでいるかのように唸っていた。