晩夏?


幸水という梨は美味しい。果実の美味しさの不思議を感じさせる。幸水以外の梨にはあまり興味ない。あまり安くないけど、店頭にあるうちに食べたい。


秋刀魚もそろそろ季節到来だが、一尾四百円とかまだ異常に高い。でも高いうちに無理して一度くらいは食べてみてもいいかもしれない。あれもシーズン中、一度か二度目くらいまでが美味しく思えて、次第に飽きてくるというか、すっかり安くなった頃になると、さんざん食べて今年はもう結構とか思ったりする。


夏は終わったかもしれない。しかし晩夏と言うのか、日差しはそこそこ強い。


郵便局へ行って、帰りに柳原千草園に寄ったら、この時期の植物の、なんと見所のないことかと鼻白む思い。勢いとか精力とかまるで感じさせない、だらっと項垂れるばかりの、色の抜けたような、だらしなく身体の力を抜いた薄緑色の雑殖物たちという感じだ。サルスベリだけが孤独にがんばって華やかさを演じている。園内ほぼ無人、ふだんよく見かける猫もまったくいない。


伊勢志摩の港町には、猫がわんさかいる。いつ行ってもそうだ。東京ではおそらく今や絶滅寸前であろうノラ猫が、かの町にはあちこちにいて、路地の奥や塀の上などに我が物顔で寝そべりたむろしている。適当に歩いていると猫を見かけないことはまずありえない。あのくらい猫の存在が当たり前だと、かの町の人々は猫のことなどまるで気にしてないし、相手にもしてない。天日干しされた魚を狙ってくる猫を追い払うくらいだ。とはいえ、Sの家の飼い猫はふつうに家族で可愛がられているのだが、僕もS宅に滞在中その猫も外をうろついてるノラ猫たちも、とくに何の思いもなく見ては通り過ぎるだけだった。そしてそのくらいの猫への興味の度合いで、昔は普通だったなあと思う。僕の埼玉の実家でも猫を飼っていたのだが、そのときもそうだった。家にいて、それが当たり前なのだ。そのへんを散歩していて、猫がいると立ち止まっていつまでも見ているなんて、昔だったら考えられないようなことだ。でも我々夫婦も含めてそういう人は多い。猫がいるだけで頭を撫でるための順番待ちが出来てたりする(我々はさすがにそこまではしない)。たぶん東京近郊の猫だけが、そんな風に人間から見られて一方的な思いを担わされているのかもしれない。外にいる猫に触りたいとか、追いかけたいとか、本来はものすごく暇で気が向いたときにならするかもしれないという程度のことだろう。でも単に我々夫婦が、その生活として、ものすごく暇で気が向いたときにならするかもしれないことばかり毎日しているということなのかもしれない。そう考えると、それはそれで納得されるものもある。


途中、古本屋で「ドリュウラ・ロシェル―日記1939‐1945」を見つける。かなり迷って、結局買った。いつ読むのかは、わからないが…。


ツタヤで「ツイン・ピークス リミテッド・イベント・シリーズ」DVDを八枚借りる(全八枚だと思いこんでいたのだが、全九枚だった。)。DVDを借りるときは客がセルフサービスで処理するのだが、久々だったこともあり、うっかり処理が一工程抜けてしまった、そのことに帰宅してから気付いた。バーコードをスキャンして、泊数を設定して、現金で支払いして、袋に入れて、そのまま持ち帰ってしまった。つまり、ディスクに付いてる黒いストッパーを外してないのだった。これだとDVDのケースが開けられない。何かに引っ掛けるとか、外す方法がないか試したがダメそうだ。ツタヤに電話したら、もう一度来店しないとダメとのこと。残念ながら鑑賞は明日以降となる。


(もし今日から観ることが出来ていたならば、八枚を二日で観終えてしまっただろうことは、我々の翌日の状況を知る今となっては簡単に予想できるが、このときはまだそう思ってない。)