わかれ道


三宅さんが自分の文章に触れてくれているのを読むと、おお…!と嬉しく思う。自分の書いたものは、大抵の場合、これで良いのか悪いのか、自分では判断がつかない。これは書く人なら、おそらく誰でも多かれ少なかれそうだろうと思われる。実現させたいイメージへの希求が強いほど、やればやるほど、むしろわからなくなるようなものだろう。まずはとにかく色々と読んで自分の反応を観察するしかない。


樋口一葉「わかれ道」を読む。当時の書き言葉ではあるが、ある種の好ましいリズム感というか、ノリが感じられる。あ、これいい、と思える導入部をもつように感じられる。たとえば幸田文「流れる」をはじめて読んだときの、あ…と軽く息をのむような感触に似ているとも言える。


わりと調子の良い、軽いノリでテンポよく話が進むので、結末がなおさら切なく、下記のような一節もものがなしく味わい深い。


「あゝ詰らない面白くない、己れは本当に何と言ふのだらう、いろ/\の人がちょつと好い顔を見せて直様つまらない事になつてしまふのだ、傘屋の先のお老婆さんも能い人であつたし、紺屋のお絹さんといふ縮れつ毛の人も可愛がつてくれたのだけれど、お老婆さんは中風で死ぬし、お絹さんはお嫁に行くを厭やがつて裏の井戸へ飛込んでしまつた、お前は不人情で己れを捨てゝ行し、最う何も彼もつまらない、」