Still Ill

カーティス・メイフィールドのギターは地味に革新的で、バッキングのようでいて所々細かくうたうように微細なフレーズを重ねていき歌唱と混合させて有機的で奥行き深い楽曲の構造をつくりあげていく特徴があり、これの影響を強く受けたギタリストの一人がジミ・ヘンドリクスであることは有名で、楽曲の要所要所へのギターフレーズの置き方、文字通りの歌い方の叙情はえもいわれぬものだが、ここ最近連続してザ・スミスを聴いていて思うに、ジョニー・マーのギターが実現した成果も意外にカーティス直系の歌唱に直に寄り添う形式のソウル的ギタースタイルなのではないかな、などとぼんやり考えている。

いわゆるネオアコすなわちアルペジオ主体のアコースティック感覚なギタープレイだとスミス時代のジョニー・マーのプレイは一般的には理解されてはいるけれどもほんとうにそうだろうか、ザ・スミスジョニー・マーのギターの「こんなのはじめてだ!」と感じさせるような衝撃の核心は、なによりもその歌に直に寄り添おうとするかのような、音一つ一つがはっきりと自らの役割を自覚しているかのようなやり方でのプレイを確立したことにあるのではないか。

叙情的、というだけで、それは雰囲気的、刹那的、気分、空気、とりとめのない、曖昧でおおざっぱで、なんとなくそんな感じであればいい、みたいなあまり先鋭的じゃないなイメージがつきまとうけど、スミスの叙情がそんなものであるはずがない。いや、そんなものだろうと考えたい人もいるだろうが、少なくとも楽曲において、それを弾いているジョニー・マーという人物に聴く者が転移した場合、ああこれはちょっと今までの感覚とは違う、今までのギタリストが担ってきた仕事の範疇とは違う、少しばかり違う範囲を見据えた取り組みを実施したのではないかと、それがもし私ならきっとそうだと、そう想像できるような気がするのだ。

たぶん楽曲全体の効果を考えてこうすればいいとか、そういう計算結果ではないと思うのだ、もっと何か抜本的な違い、立場の違い、たとえば、あたかも自分ももう一人のモリッシーであるかのように、彼がそう歌うなら自分も同じように歌ってしまうとして、だとしたらどうか、こんなことで全体の落とし前がつくのかは二の次で、ひとまずこんな風に彼に寄り添ってみたらどうかと。

さて、それが成功だったのか失敗だったのか、世間では成功したことになっているが、そもそも何が何を成功だと決めるのか、そんな権利が誰に、どこにある、そんな責任を取るべきだといった社会性などあえて捨てているところに、彼の発明はあったように思うのだ。ただひたすら、愚にもつかぬ言葉をそのように飾り立てることができるという、その可能性だけに自らを奉仕させてみた、そのかりそめのチャレンジにだ。

まあ、考えすぎなのだ。still illなのだ。いまだにその病気に掛かることができると、あなたも社会人なら、インフルエンザとどちらがいいのかと言う話になってくる。