台北暮色

アップリンク吉祥寺で「台北暮色」(ホアン・シー)を観る。パルコの地下にあったパルコブックセンターがいつのまにかなくなって、フロア全部が映画館になっていた、それがアップリンク吉祥寺である。なかなか今風な雰囲気の映画館なのだが、物販のコーナーなど如何にもアップリンクらしい品揃え(デレク・ジャーマンのBLUEとか)で、古いのか新しいのかよくわからない。

ホウ・シャオシェンが製作総指揮で、その門下生的な人が監督したということくらいは知って観たのだが、まさにそんな感じの、ホウ・シャオシェンエドワード・ヤンが耕した土壌の豊かさの元で伸び伸びと撮りましたという印象。女優リマ・ジタンが演じる女性と俳優クー・ユールンが演じる男性、この二人の若い男女の肉体が若々しさに満ちていて、人生の真っ盛りというか、はちきれそうな勢いというか、物語の季節が夏なので、登場人物たちは全編肌の露出が多い格好をしているのもあるが、彼らの仕草や行動のことあるごとに眩しいような肉体の豊満さ、重み、匂い、汗の濃厚なイメージが溢れだすようだ。もちろん本作はそんな肉体性を誇示するような映画では全然なくて、いちばん中心にあるのは台北の景色、と言っても良いような作品である。

僕は個人的に、スクリーンに映るリマ・ジタンの肉体から始終眩しさを感じていながらも、この女性のイメージに対して性的魅力というか惹きつけられるような力をほとんど感じていなかった、これは単なる僕の嗜好というか好みの反映に過ぎないのか、それともこの映画がそのような吸引力をフィルタリングするような作用をもたらしているのだろうか。しかし僕は男性であるクー・ユールンの表情や仕草からは一定の磁力を感じてもいて、これは自分の同性嗜好とかそういう事を意味してはいるのかというと、何ともいえないのだがそういうことではない気もする。いずれにせよ性的に惹かれない登場人物への感情移入の度合いは低くなり、自分にとってそれはますます風景を中心とした映画の様相を強くする。夏の空の下で台北の町並みや住宅の並びが存在し、のっそりと重々しい肉体の男女が悠然と暮らしていて、インコが餌を啄ばんでいて…そうなのだ本作では人よりも部屋で飼われているインコの動きの方がよほど生々しく目覚しい。

台北とはこういう場所なのかと思う。エドワード・ヤン台北ストーリー」から三十年以上が経過しているのだ。そこはまるで、東京にもみえる。僕の住まいのすぐ近くの景色のようでもあるが、まるで似ていなくもある。複雑に折り重なりあいながら伸びる高架線、川べりの草叢、巨大な水溜り、前半の快晴の空の下での出来事から、中盤にかけての撮影では霧雨のような粒子表現が印象的で(映像加工とかではなくふつうに撮影されたものだと思うが)、繊細にとらえられた光が維持されたまま雨天へ移行し、やがて夕暮れに近付き、街灯や車のライトの輝きをたたえつつ夜へと向かう。ストーリーを追うよりも天候や光の変遷をじっくりと感じ取るほうによほど豊かなものが得られるような感じだ。というかちょっと物語自体はもはやありがち過ぎる気もするのだが、そういうことはあまり問題ではないといえる。ラストシーンとか、あの景色だけで映画全体の印象が三割増しくらい良くなってしまう。ただ、ここまで美しさ全開、美しさを完全肯定してしまうことの退屈さという側面もないとはいえないかもしれない。

以下余談だが、ちなみに僕も約四半世紀前に、本作の冒頭とラストでクー・ユールンが蒙ったトラブルとほぼ同等の経験をしたことがある。当時ほんの短期間だけ(超ボロイ)自動車を運転していたので。映画ではエンジン故障だが、僕の場合はエンストしただけ。でも何度やってもエンジン掛からなくて、後ろに車が待っていて、しかたなく必死になって手押しで車を脇に除けたという…。万事休すの状況に焦って覚悟をきめたからとはいえ、自分にあれほどの火事場パワーがあるなんて知らなかった。だから映画の中でトラブル勃発時に、大騒ぎしてる女の子と対照的にぼんやりと事の次第を黙って反芻してるだけみたいな男の態度にすごくリアリティを感じた。そうそう、そういう態度になっちゃうよね、と。