海の顔

祖父の写真は僕が見たことのあるのは今まで一枚だけで、それは軍に召集され出征した後どこかで撮影された集合写真で、ぐるっと手書きのマルで囲ってある内側のそれが祖父だ。その写真だと祖父の顔立ちは父とよく似ているのだが、きのう位牌を受取った本家で見せてもらった写真は、僕はこれまで一度も見たことがなかったもので、四つ切サイズのちゃんとした大きさで、写真スタジオで撮影されたようなスーツを着た祖父の坐像だった。艶めいてふっくらした髪は櫛で丁寧に撫で付けられており、眉も描いたかのようにシャープだ。襟元もネクタイも調っていて、肩から白いハンカチがのぞくジャケットの胸にかけて、なめらかな男性の上半身が包まれているのが感じられて、ゆったりと下ろされた右腕は肘掛に掛けられ、指先にはタバコが挟まれている。ネガに化粧というか修正が加わっているかもしれないが、とても凛々しくて清々しい雰囲気の、きちんとした肖像写真である。これはまだ祖父のかなり若い頃、おそらくは十代半ばか、せいぜい十八歳位で撮られたものではないか、生年から考えると1930年代半ば~後半の写真ではないかと思われた。端正な表情ながら、まだどことなく若者のあどけなさが残ってるようにも見える。祖母との出会いも父功一郎の生誕も、この時期とそう違わないだろう。この後、祖父母二人に残された人生の時間はあまりにも短かった。父が昭和十六年に生まれ、祖父は翌年に出征、祖母は波切を離れ、同年長崎にて客死。祖父は昭和十九年にビルマで戦死。親子三人が一度でも家族として互いの時間を共有したことが果たしてあったのかもわからない。生まれたばかりの子を置いて長崎へ向かう祖母の胸中はどのようなものだったか、祖父は祖母の死を知ることがあったのか、家族というものの形を思い浮かべることがあったのか、今となっては、何もわからない。それを父は、77年の生涯を掛けて考えていただろう。そしてある時点まで来て、もはやそれを考えても仕方がないとも、考えていただろう。そんな言葉を僕はかつて父から聞いたように思う。たしか五、六年前のことだ。あのあたりから去年にかけて、父の身体的衰えは早かった。さすがに、もう俺もこんなもんでいいやと思っていたのかもしれない。何かあるたびに東京から来る息子の僕を見て、こんなに度々手間を掛けさせて、こんなことなら、それならもういいやと思ったのかもしれないな、とは今でも、ことあるごとに僕の中に思い浮かばれる。

戦争が人を別ち、死をもたらし、破壊の限りを尽くして、やがて復興して、商売が復活して、皆が躍起になって右往左往しはじめ、出たり入ったり、行ったり来たりして、大きく稼いだり、大きく損したり、くっついたり離れたり、そうして年月を経て、やがて少しずつ波の勢いが弱まって、人々が交替して、空席が出始めて、若者が出て行って、観光バスも止まらなくなって、御土産物の店も一軒二軒と畳まれて、細かい事業が整理されて、大きな資本で再編成されて、土木機械がいっぱい入ってきて、埃が舞って、土砂が流し込まれて、遊泳禁止の浜が増えて、気付けば僕も君も、すでに五十歳を目の前に控えていて。

父が死に、町並みも風化して、人も年齢を重ねて、路地の人通りも少なく、シャッターの閉じた商店が並んだ、行く度に寂しい雰囲気をが増すようにも思われる父の郷里だが、しかしいつ行っても、海だけは変わらないと思う。それは言葉にするといささか凡庸すぎるというか、型にハマり過ぎのつまらないフレーズに聞こえてしまうが、でも本当にいつ行っても、海だけは変わってないのだから仕方がない、そのようにしか言いようがない。

昔、僕が小学生の頃、たしか昭和五十三年頃に、父が自らの画文集を自費出版したことがあった。当時の父はおそらく四十歳前後だろう。その文集から引用する以下の文も、いかにももっともらしくてつまらないものに思うのだが、この紋切り型こそが父だったなあと、それを僕は小学生の当時から明確に感じていたと思う。だから僕にとって、紋切り型は父なる何かを呼び起こすものだ。

昭和16年 初夏
海で僕が生まれた

昭和17年 夏
海で母が死んだ

昭和19年 晩夏
海の向こうで父も死んだ

昭和53年 夏
僕の海がずっとずっと
生きている

 母親との記憶(自らの記憶ではないにしても)を元にした下記のような文もあった。

それは冬だったのか
春だったのか
はたちになったばかりの
おふくろに抱かれて
巡航船にのりこんだ

長崎への永い旅
抱かれていった僕は
帰ってきたけれど
おふくろは
帰ってこなかった

巡航船にのりこんで
港を出るとき
すでに帰らないことを
おふくろは知っていたのか
僕にはわからない

ホテルをチェックアウトして、義弟の運転で浜島あたりをドライブする。リアス式の入り組んだ海は複雑な曲線を描く入り江に阻まれているので、それは海とは思えず、さっきからずっと湖が連続しているようにしか見えない。細く頼りない感じの木が何本も海上から整然と突き出ていて、あれは海苔を養殖しているのだと言う。一艘の船がゆっくりとその養殖場へ進むほかは、とくに動くものもないが、薄っすらとした光が冬の冷たい風を受けて明滅しながら水面を震動させているようで、動きがあるとしたらそれくらいだ。車の中は暖かく窓の外をじっと見ていたらまるで毛布に包まっているような錯覚に陥り、やがてウトウトし始めて、間もなく六歳になる姪の嬌声が聞こえたと思ったら、手でぱんぱん叩かれて目が覚めた。

志摩磯辺駅近くの鰻店で昼食。定食の前菜からう巻、うざく、あらい、かば焼、茶碗蒸、白焼、肝吸と全品がうなぎ料理で、こりゃ仕方ないでしよと言い訳しながら冷酒を二合もらう。関西の鰻のかば焼ははじめて食べたが、これほど香ばしいのかと思った。非常に味わいが濃くて明快で、焼き魚的なワイルド感がはっきりと感じられる。関東風よりもこっちの方が好きという人も多いだろうと思う。たいへん満足したが、いささか食べ過ぎだ。白米をあれほどしっかりと食べたのは実に久しぶり。

帰りの新幹線は指定席が取れず、くそー高いなあとは思ったけどやむなくグリーン車へ。とはいえ今回、JRと近鉄特急券はすべてスマホからオンラインで購入できたので行列に並ぶこともなくあらかじめ現金を用意することもなく、その点はまあ、世の中便利になったということかもねとは思う。新幹線はC・D席だったので帰りも富士山の側だが、やや暮れ掛けた空に山のほぼすべてが雲で隠れていた。五時半頃に東京着。明日から仕事、昨年からの父関連の法事もこれでひとまず終わり、長いような短いような三連休も終わりだ。

最後にもう一個、下記に引用しておくか…。ちなみにこれらの文章はおそらく父が第一稿を書いて、それを当時地方新聞の挿絵を描いて付き合いのあった作家にお願いしてリライトしてもらっているはず。そのことは文集のあとがきに、僕の文章力のなさをいろいろとカバーしていただきましたという言い方で本人が告白している。だからこれほどに口当たりの良い凡庸な仕上がりになっているのだろう

僕の生まれた海は
底ぬけに明るい海だった

たとえ
時化る日があっても
どこか明るかった

その海の明るさに
僕はいつも
ある不安をもっていた

僕の生れた海は
今でもかぎりなく明るく
そして
今でも僕はその明るさを
信じられないのです

父の長年にわたって残された手帳やノートには、本人自筆による詩のような散文のようなものは過去から最近に至るまで多数残っているけれども、ここに引用したものとくらべて、総じて未整理で何が言いたいのかはっきりしない、もぞもぞとした文章か、あるいは言い切りが唐突過ぎたり、同じことをくどくど繰り返したりして面白くないかのどちらかという印象がある。それは僕も若干、その癖を受け継いでいる気もしないでもない。