前にも書いたが、昔の自分の写真を見て、それが思いのほか父親に似ていたことに気付くという話は、つまりふだん如何に自分の顔をきちんと見ていないかを、示しているのだと思う、というかそれは「きちんと」という言い方で妥当かどうかはわからない。つまり毎日見ている顔と久しぶりに見た顔では、同じ顔でもぜんぜん違うということだ。

昔の自分の写真を見て、それが父親に似ていることに気付いて意外な思いをしているのは自分自身だけではなく妻もそうだ。つまりそれは、毎日その顔を見ている本人や近しい者が、見慣れているがゆえに気付くことのできないような、いわば僕の顔の基本的構造で、そういうのは、久しぶりに会った人だからこそ気付ける。まあ、あなたすっかり、お父さんに似てきたわねえ…とか、お母さんそっくりね…とか、その人にとって僕の顔は、僕個人であると同時に、遺伝されて連続性をもったある形式構造の現在示された状態としてもある。そのように識別されて他者の記憶に残された、連続系の一つとしての自分というものがある。どこかの誰かの記憶に残っているその堆積を思うと、自分の頭の中にある自分自身の過去とどちらが正しい(正史?)のか、やや心もとなくなる。