三人の女(トンカ)

ムージル「三人の女(トンカ)」はおそらくムージルという人間、ある時期のある場所に生きたある一人の男性の、過去の記憶とそれへの屈託が濃厚に反映されているように思われる。wikipediaによれば「三人の女」刊行は1924年とのことだが、おそらくムージルのまだ若き頃、おそらく大学で博士号を取得した(1908年)あたりの、そのくらい昔の記憶が元になっているのではないか。

物語とか形式とかそういうことはただの結果であって、これを書きたいというモチベーションの拠り所はそんな作品のディテールへの拘りにはなくて、なぜあのことは、こうじゃなくてああだったのか、なぜ出来事はそれ以外の可能性を取らなかったのかという焦がれるかのような疑問、不条理で非論理的なものに立ち向かう醒めきっていながらも暗く熱い熱情のようなものが滾っていて、それに突き動かされているように思われる。強烈な思い、いや、思いというよりももはや祈りというか、いやほとんど怨念のような感情の渦巻きが、小説の登場人物たちに憑依して、登場人物なのか語り手なのか判然としないような何かによってその世界が立ち上がっているように感じられる。

ある意味、この物語はふつうに恋愛小説、というか失恋(別離)の小説だ。私のこうであってほしいという希望、こうあるべきではないかという思い、それに対して相手は、いや私以外のすべては、決してそのようではない。しかし私の希望に真っ向から反しているとか、ことさら反対の圧力が私に向かってくるわけでもなくて、むしろ何もなくて、こちらの希望が、ことごとくずらされて、脱臼させられてしまうような、恋愛の相手とは常にそのような存在で、この私の満足や納得はいつまでも先送りされる。そもそもこの私の恋愛感情そのものが謎なのだ。要求することを欲しているのか、希望されることを欲しているのか、信じてほしいのか、信じたいのか、その自他に行き交う要求が何重にも重なって混沌とする。

とくに後半は「愛の完成」で取り組まれた問題が再びリフレインしてくるような、言葉のむなしいぶつかり合いに呆然とさせられるような展開だ。その混乱の視線を向けた先に、トンカという女性の姿そのもの、いつもその姿はまるで透明な物質のように、ただそこにそのようにあるかのように描かれている。疑いを否認したりただ無言だったり、抑揚のない態度のままに、ただそこに実在している。観念的な渦巻きと、物質の存在という事実が、まるで鉛を透かして届いた光線に照らされた家具のように、その薄暗さの中に平然と並んでいる。そして「彼」はその狭間を楽しみはしない。混沌の中を耐えているだけだ。