始まりと終わり

RYOZAN PARK巣鴨保坂和志の小説的思考塾2回目。オイディプス王の話については、ウィキペディアが相当詳しく書いてあるからとりあえず読むといいかも。まず予言があって、その予言から逃れようとするけれども、結果は予言の通りになる。主体はあらかじめ設けられた枠を超えた動きができない。そのフレームを越えられない。話としてよく出来てるなあといつも思うのは、オイディプス王をはじめとするギリシャ悲劇、あるいは落語の「粗忽長屋」だ。(行き倒れたこの死骸の男は、俺が知ってるあいつだ、俺はアイツと今朝も一緒だった、よし今からアイツをここに呼んで来る!)フレームを超えられない話、あるいは超えてしまったことの気持ち悪さを面白さに変換する話。

そういえばパソコンをONにするときって、機器のスイッチを押すでしょ?でも、パソコンをOFFにするときって、ソフト側からOFFにするでしょ?あれっておかしいと思わない?と言うと、誰かがすぐに「もう!保坂さんバカだなあ、パソコンを終了させるならOSを終わらせなきゃしょうがないじゃん」とか何とか、すぐ言ってくるヤツがいるけど、そんなことはわかってるんだよ!そんな話をしたいわけじゃないの!行為のつじつまが合ってないじゃん、始まりと終わりがズレてんじゃん、それを言ってるの!!…という話に心から共感した(笑)。そう、それは僕も昔から、たぶんはじめてパソコンに触れた瞬間から、ほんとうにそう感じていた。いつしかその疑問を自分の内になくしてしまっていたことに気付いた。

音楽に始まりと終わりがあるというが、そんなことないでしょという話。様々な音楽を聴いている人がそれを聴くのと、それほどたくさんの音楽を聴いてない人がそれを聴くのとでは、同じ音楽から聴こえてくるものは既にぜんぜん違う。誰かがその音楽を聴くとき、その曲が始まる前から、すでにその人は音楽を聴いているのであって、だからそれを始まりとは言えないし、その曲が終わってもその人の中にその音楽はずっと再生され続けるので、それを終わりとは言えない。要するに、すぱっと始まってすぱっと終わるように人間の脳は感じてない。

深沢七郎の言葉(保坂和志さん手書きメモを印刷したものが参加者に配布された、その中の引用を孫引き)。

【ギターを弾いたそのときどきに音が消えていくことの方が、私にはギターらしく思えるのだ。生まれて死ぬことも、ギターを弾くことも、なんとなくそのときどきに消えてしまう方が私にはステキなことなのである。】

これって、デレク・ベイリーのギタープレイを見事に批評した文章のようにも感じられてしまう。…ギターという楽器の特性を完璧なまでに言い当てている。ギターというのは、そうなのだ。あれはかなしい楽器で、ピアノのようでいてピアノとは似て非なる楽器で、ピアノが鍵盤を叩くことでしか音が出ないのに対して、ギターはそのままでも音が出る。立てかけられたギターが床に倒れただけで、それだけで「演奏」が出現してしまう。ギターとはそういう特性を持つ楽器なのだ。弦楽器の中でもそういうのは珍しいのだ。

源流は濃い、という話。あらゆる出来事は、歴史とか文化とか作品とか、生き物の営みすべて?かもしれないあらゆるものの源流は濃い、ということか。源流だけが原色で、それ以外の数千年におよぶ時間の広がりのなかを、源流が薄まって広がって広大な面積を染めていく。出来事のほぼすべては源流の薄められた結果に過ぎない。あの限定された時と場所でなぜこれほどのムーブメントが起こりえたのか?などと考えても仕方がない。それは逆で、むしろその限定された時と場所から、ここやあなたをも含む全てが(あなたの問いが成立する余地も含めて)成り立ったのだ。(自分の視点を中心に仮説を見立てても大抵は無駄だ、ということ。)