光・比喩

3/7に書いた「まるで鉛を透かして届いた光線に照らされた家具のように」という比喩だが、これは「三人の女(トンカ)」そのものの、終盤の方に出てくる比喩の丸パクリであるという事をここに急いで付け加えておきたい(とFさんに伝えたい)。丸パクリは大げさかもしれないが、例えば「トンカ」の、以下の下り。

口に出してはいわなかったが、二人はまたおたがいにからだをもとめあうようになっていた。昔なじみが久しぶりに再会した時、仰々しい挨拶はぬきにして部屋にはいるような時の訪れだった。狭い中庭のむこうの窓は、影に覆われて薄暗かった。人はみなはたらきに出かけていた。中庭は井戸のように暗く下に横たわり、日光は鉛板をすかしてくるようにぼんやりと室内に降りそそぎ、家財道具をひとつひとつとらえては、それを死んだようにかがやかせた。

(179頁)

こういうのは、日中の光を見ることのできる人だけが見ることのできる光だろうなあ、と、会社員である自分は思う。

「トンカ」を読んで感じ続けていたこととして、ある比喩の表現に対して「いいねえ」と思うことはあるけど、たとえばA→Bのイメージ連鎖そのものをいいと思っているというよりも、A→Bを連鎖させる背後のC的存在、つまり書き手の感覚に共振して「いい」と自分は思っているような気がしてならない。というよりも比喩は比喩だけで「美的」なものとして独立しているわけではなくて、やはり作品内において何かの役割を担ってはいて、その役割が十全に果されていることに対して「いい」と思っている。もっと簡単に言えば、比喩は要するに、その書き手の気分だとかある心身の調子だとか、そういった人の部分をよくあらわすことのできる表現ではないかということだ。A→Bであることの可能性を開いたのは書き手で、その感覚を賞賛している、とまでは行かなくても、そこでもたらされたよろこびは書き手に与えられたものの感が強い。僕はムージルの比喩を、もちろん「いいねえ」と思う箇所も多いが、正直、微妙に感じられるときもけっこうある。

ある意味ムージルの面白さの一つはそこで、とにかくこの人は何なのか、地味なのか目立ちたいのか、無口なのかお喋りなのか、いまいち判然としない人で、「三人の女」に収録されてるムージルの作品などどれも、登場人物の一人と化しているとも言える書き手の様子としては確信も自信もなく曖昧で、絶えず「この言い方で、こんな書き方で大丈夫だろうか…」と絶えず再帰的内省に割り込まれて、でも、まあいいかと反転して、いきなり唐突かつ強引な隠喩を決めて、そのままシレッと先へ進むみたいな、自分の書いていることに対する自信と不安の入れ替わりが激しいというか、そのくせおそろしく難解で誰がみてもそれは成功しそうにないなと思うようなことに果敢に取り組んで、それが結果的に上手く行ったのか行ってないのかわからないけど、とにかくなかなか謎な境地に至った作品が並んでいるという印象だし、ムージルという人とは全体的にそういう芸術家という感じがする。(…あの長編を読んでないのでエラそうなことは言えないのだが)

ただし、そのような作品を作り、反復させた根拠の不可解さ、その強迫性というか、呪いに取り憑かれたかのような感触、ひとりの作家を突き動かさずにはいられなかった、過去に実在したはずの誰かの時間と経験の手触りのようなもの、想像しかできないが、確実に起こった出来事、つまり死とか、喪失とか、言葉にすればそういう類の、それらと裏表になっているような迫力こそがもっとも重要だし、それこそがムージルの作品を作品として輝かしめる部分であろう。読み終わったあと、作品から解放された自分が、まず何をすればいいのか戸惑うような読後感を味わうことになり、しかたなくムージルでググッたり当時のオーストリアやドイツのことを考えたり、いや、やはり何もわからないと思いなおしたり、そういうことを今回「トンカ」を再び読んであらためて思わされたし、たぶんまた再読するだろうとも思った。