回想のセザンヌ

エミール・ベルナールの「回想のセザンヌ」。エクスでベルナールがセザンヌとはじめて出会う場面が、あまりにも生々しい。かなりの老齢。杖をついて、危なっかしい足取りで、細かく息を継ぎながら、テーブルの端に手を着いて体を支えて、無言のままゆっくりと椅子に腰掛け、背もたれに背中をあずけ・・・。老人の粗く乱れる呼吸が整うまでしばらく待って、そのあと意外に力強く大きな声で「私がセザンヌだが、用件は何かね?」なんだか目に浮かぶような、本当に目の前で相対したような気がする。

ベルナールの訪問はセザンヌが死去する一年ほど前の時期にあたる。セザンヌは糖尿を患っており、年齢以上に老齢化していたようだ。しかし絵を描くために、画材を抱えて毎日山歩きをする、それだけの脚力はあるのだ。老人というものの計りがたさ、何十年とひとつのことをやり続けている心身というものの捉えがたさ、ちょっと身体に触れただけで烈火のごとく怒る、軽度の被害妄想にも思われる、この先身体の自由が利かなくなっても要介護も要支援も申請できませんよ。そんな制度お前の世界の話だろうが!そんなこと誰が頼むか!火が燃え立つように怒る。しかし日曜日の教会へは必ず向かう。極端な禁欲主義で若い女性の傍へなど近付くことさえない。お手伝いのおばさんには礼儀正しく接する。ベッドの枕元には小さな十字架が掛けてある。

エミール・ベルナールという人はこの本に限った印象としては、とても器用で分別があってお利口というか頭のいい人だったんだろうと思われ、どうしようもなく画家でしかありえないというタイプではないと思われるが、それは怪物的画家のセザンヌを前にした相手だから、そう思うだけかもしれない。とにかくベルナールはセザンヌのアトリエや住まいへの訪問に成功はするのだが、終始遠慮と謙遜の態度で、とにかく仕事の邪魔にならないように細心の注意を払ってる感じである。セザンヌの態度や一挙手一投足に一々ビクビクしている。パリであなたの昔の作品が画廊にあって…などと話をしようものなら、あんな昔の絵は全然ダメだ!あんなものを良しとするなんてパリも高が知れてると言って取り付く島がないし、ゴーギャンなんかまるでダメだ!とセザンヌ翁に全否定されて、元々ポン=タヴァン派としてゴーギャンと仲良く一緒に制作さえしていたベルナールは、うーん…そうですねえ…と俯いてしょぼんとしている。いきなり激怒するセザンヌ翁にどやしつけられて戦々恐々となって、一人で宿に戻ってからくよくよ悩んで、ほとぼりがさめてからまた恐る恐る近寄って、自分のパレットを見たセザンヌ翁から「お前、これだけしか絵の具を使わんのか!あの色はどうした!あれもこれもどうした!これでどうやって絵が描けるんだ!」とぐいぐい他の絵の具を出されて、ベルナール描きかけの絵をセザンヌ翁自ら修正しはじめて、画架が貧弱だからセザンヌが力いっぱい画布に筆をおくと絵がグラグラして按配が良くないのがベルナールはまるで自分の過失であるかのようにオドオドする。仕舞いにはセザンヌ翁が「こんな場所では描けないから、明日から俺の画室で描け!」とまで言われ、ベルナールは飛び上がって恐縮しそれだけは勘弁して下さいとありえないような申し出を固辞する。自分が、あのセザンヌと、日々を共にしていることの信じられないような喜びと興奮、それと表裏重なってる不安、恐怖。この老人は極めて神経質そうだし、癇癪持ちっぽいし、人付き合いに関してはけして社交的ではないはず。にもかかわらず、自分を受け入れてくれたようだし、画家であると認めてくれているようだし、しかし嫌われているようでもあり、疎ましく思われているようでもあり・・・でも、読んでいると、あなただってあの有名なエミール・ベルナールなんでしょ!?と問い詰めたくもなる。まるで素人というか、臆病な美術ジャーナリストみたいな態度に終始している感じだ。でも、画家だから、こいつも俺と同じ画家だと思われたから、ベルナールはセザンヌの傍にいられたのだ。