分散化革命

「r/place的主体とガバナンス ? 革命へと誘うブロックチェーンインターフェイス」を一読して、まだ充分に理解できているわけではないが取り急ぎ考えをまとめておきたい。

http://ekrits.jp/2019/03/3046/

命令・恫喝・シニカルな自己満足によって駆動する通常の階層的(官僚的)組織。これには国家から家族までを含む人間のあらゆる集合体が含まれるだろう。

組織、つまりこの社会に属さず単独で生きることはできない。これは前提としてある。たった一人の風来坊だから非組織だとかそういうレベルの話ではなくて、人間として存在する以上組織構成員であることは避けようが無い。

かつて様々な組織の試みがなされた。最悪の結果を生んだものもあれば、そうでないものもあるだろうが、ほぼすべての組織は階層構造を持ち代表制が敷かれていた。宗教も国家も家族もだ。その構造下で理念や目標の共有、共感、感情移入、信仰や愛、転移関係によって組織は運営された。それは悪夢のようでもあったし、美しい夢のようでもあったし、恨みの集積のようでもあったし、かなわない祈りのようなものでもあった。

さて、本論に描かれたこのイメージをどう捉えれば良いだろうか。まずきわめて即物的エビデンスに基づいた新たな組織運用の提案という感じだ。「これがいい」とか「こうあるべき」とかではなく「これは違う」の集積によって運用が継続される。ポジティブな理想を求めるのではなく、ネガティブな「これは違う」がひたすら集積され「肯定的ではない理想」が際限なく追求される。組織の構成員であること、それにともない避けられない苦痛を「苦痛トークン」として一々申告することによって、組織は常に構成員の苦痛の最小化が図られ成り立つ。

「これは違う」を不断に積み重ねることで過程はどうあれ結果的には正しさへの近似が示されるという仕組みはディープラーニングを彷彿とさせる。ここには共有されるべき何の「理念」も「物語」もないが、実際これまでの歴史において、従来の理念型代表制の組織が形作ってきた「物語」の出来の悪さというのは誰もが薄々と感じてはいる。構成員全体を対象とした機械的な苦痛解析が継続することで、組織のありように半永久的な更新が掛かり続ける、そのシステムへの信頼がぎりぎり最低限で必要とされる連帯のモチベーションになる。この仕組みがたとえば改良されたESG投資との組み合わせによって社会的に循環し始めるとき、それはひとつの革命的達成と見なされうるだろう。

たぶんインターネットという仕組みを使った、インターネットが本来もっていたはずの可能性を最大限に近く活用した革命の青写真なのではないかと思う。九十年代半ばから二十五年近くが経過して、いよいよ本当の分散化(→歴史と人間の生を分散化すること)が、実現可能になりつつある、その時期が到来しつつあることを意味しているのか。

もちろんこの論考だけでは、それじゃあ具体的にどうするのかについては、まだわからない。それはこれから検討・構築されるべき課題なのだろうとは思う。

従来型組織は構成員を幸福にもするが、苦痛に陥れてその生を蹂躙しもする。その可能性がある。組織内の苦痛、その組織に属さない者の苦痛、同時に誰もが組織化されずには生きられないことの苦痛がある。しかし組織化は避けられない。が、組織内を構成するには苦痛がともなう。ならばそれを是正しなければならない。

自分もこの歳になるまで、従来型の組織内に所属することで生きてしまって、その功罪というか恩恵を良くも悪くも存分に吸って、今まで生きてきてしまったなと思う。その自覚は少しはある。同時に、もっと分け前を寄越せ、もっとこちらに渡せ、あいつがこうなのになぜ俺はこうだ、などの思いが胸の内にあるのも否定できない。自分が恵まれてるだなんて全く思わない。不平や不満や打算や損得勘定が自分の中に存在しないとはとても言えない。組織というのは往々にして「助け合いの会」ではなくて「競争の会」である。運次第だし、早い者勝ちだし、相手の油断に付け入るし、用が済めば他人がどうあれ自分はずらかる場である。立場や都合を利用して、人の肩に泥靴のまま乗って上の段に昇ろうとするようなものだ。

アウシュビッツから生還したプリーモ・レーヴィの言葉「最悪のものたちが、つまり最も適合したものたちが生き残った。最良のものたりはみな死んでしまった」を思い出す。生き残ったのは組織化した人間だけだった。収容所でもそうだったし、おそらく現代のこの世でもそれはそうなのだ。従来の組織に属して、シニカルな自己満足と情報の遮断を繰り返しつつ生きていく。僕もそのように生きてしまったのだと思いはある。しかし才能もなく力量もなく、仕方が無かったのだとも言いたいが、それは言い訳に過ぎない。というよりここにそのような言い訳を書くこと、告白できると思っている態度自体が、狡猾なものであろう。

あらたな組織構築の論理、「最も適合したもの」だけが生き残ることのできる仕組みではなく、誰もが最少の痛みで運用でき、生きることができる組織は、今後の世界にとって必要であり欠くことのできないものに違いないと思う。その可能性を、今後も忘れずに行きたい。

革命とは、従来の価値感とその下にいる人間、新たな価値感とその下に集まる人間との交渉だ。暴力をともなわない革命が成功するためには、両者双方にとりあえずの納得が生じなければならない、昔のような切れ者のエージェント的人物の才覚で仮に無血革命が成功しても、それは来るべき分散化革命の成功と言えるだろうか。今、私がこの手に持っているものを手放すことが出来たとして、それが出来る理由は何なのか。手にしているものの価値を感じなくなったからか。しかし、だとしたらそれはもはや誰にとっても価値がないのではないか。まだ価値を有しているのに、それを手放すことができるのだとしたら、それはどのようにして可能なのか。

いずれにせよこの論考が最後の段落において、失敗をおそれるなというメッセージと共に閉じられているところがとても素敵だ。子供のようにすぐ「もう終わった」だなんて簡単に口にするなと。問題をすりかえるな、逃げるな、パニックになるなと。自分の力を、もっとじっくり信じてみろということだろう。