アッバス・キアロスタミ

キアロスタミ「友達のうちはどこ?」をDVDで観た。たぶん九十年代以来の再見。当時観たキアロスタミはとても凄いと思ったし特別な映画に思えたもので、久しぶりに観たのにあまり久しぶりという感じがしなかったくらい、場面のどれもこれもが記憶に残ってはいた。とはいえ僕はこの物語の最後で主人公の子がその日のうちに探していた友達と無事会えたように勘違いしておぼえていたのだが、そうではなくて結局翌朝の教室で出会ったのだった。全編とくにこれといって大したエピソードもなく何事もないのに小さな発見とよろこびをもたらしてくれる作品…みたいな印象でおぼえていたのだけれども、あらためて観るとサービス過剰なほど映画的な仕掛けがたくさんあって、どちらかというと面白さ全開で作られている映画だった。聴く耳をもたない母親から脱出するときのスリル感とか、祖父の相手をしてるときのじれったさとか、ドア商人のおじさんの苗字が友人と同じだと知ってからの手に汗握る展開だとか、茶色のズボンを履いたその子の上半身だけが隠れていていつまでも顔が見えないのを固唾をのんで待つとか、孤独な爺さんの案内で結局さっきと同じ家に連れて行かれて憮然とするとか、最初から最後までイライラ、焦燥、不安、じれったさで観る者をひたすら引っ張る。そしてラストシーンのかっこよく気の効いた感じ。過去形の言い方になってしまうが、これが本当に面白かったんだよなあと思った。

続けてキアロスタミ「そして人生は続く」をDVDで観た。これも久しぶりの再見。僕がはじめてキアロスタミを観たのは「クローズ・アップ 」で、観た当時は大変驚いたし興奮して一緒に観にいった人たちとワイワイ騒いだものだ。「そして人生は続く」もそうで、はじめて観たときは大傑作だと思ったものだが、つまりちょっと捻ったフェイク・ドキュメンタリー風というか、ロケ地は本当の被災地で、ドキュメンタリー風だけどこれは映画である、ということまでが前提とされていて、時には登場人物自らその構造について言及したりもするという(この家はこの映画では私の家だけど本当は誰かの家で、本当は私の家は壊れてしまったんだ…とか)、それでまた少しレイヤーに乱れが生じたりもするという、しかし最後まで観ると、これはもう結果的には映画にほかならないと感じさせるみたいな、構造的にはそんな感じだ。僕の場合この映画でとにかくいちばん記憶に残っていたのが、ひたすら車の運転をしながらあたりを見回しているか息子と喋ってるか被災者の人々の話を聞いている主人公のおじさんの顔で、その印象は今回観ても同じだった、というかあの顔をもう一度みたくて観たようなものだ。この人の顔が醸し出している何かがこの映画のすべてと言っても良い気がする。1990年のイラン大地震被災者の人々が語る様々な話、。地震の日に結婚した新婚夫婦とか、肉親を失ったけど神の思し召しだとあっさり語るお兄さんとか、それらの相手を見つめて、話にうなずき、あるいは黙ってときにはかすかに微笑をたたえて、じっと話を聞いている主人公のおじさんの顔。映画における人の表情というものは、それだけである種の納得をもたらすというか、顔一発でひとつの答えになってしまうような側面がある。それは如何にも映画的であるとも言えるが、時と場合によっては、それだけで済ませてはいけないこともあるだろう。それなら本作のおじさんの顔はどうなのか。この人自体が「いい人」なのかそうでもないのか、「よくわかっている人」なのか「理解不足」なのか、この人の顔が本作におけるある種の回答として機能しているかと言えば、けっしてそんなことはない。そこに役者を配置して、このような題材を扱うことへの畏れがあるか否か、それをどうあらわそうと作り手が考えているのかは、その登場人物の表情からでは最後までよくわからないというか、わかりやすく甘い解決を示さないままだ。最後の大きな荷物を運んでいる歩行者を車に乗せてあげる印象的なエピソードはどうか。あれはちょっとユーモラスな、思わず口元がほころぶような素敵な場面であるとも言えるし、そうでもない、とも言える気がする。また、主人公のおじさんが消息を確かめたかった少年の安否は、結局最後まで不明なままだ(まぼろしのような影を見るだけだ)。作品を、悼みとしてあらわそうとするとき、ならば作品自体の強度が内的により一層高いものであってほしいとも願うはずで、本作からはその矜持というか厳しさのようなものを、感じさせるとは思う。ある困難を映像化しようというときに、本作の選んだ手法としてこれだったのだなと、そのような説得力を、感じさせるとは思う。