大雅、芳崖、由一、カプーア

湯島駅の出口を上ってしのばず池の方角を見ると、まさに行楽日和という陽気の下、すでにたくさんの人の群れがうごめいている。桜の季節として今週末の人通りがどこでも溢れるだろうことは素人でも予想できる。上野もはたしてその通りで、行く列来る列が交じり合って大変なことになってる。それでも西洋美術館のル・コルビュジエ展には関係ないだろうと思っていたのは甘かった。チケット売り場を見て、ああこりゃダメだと思って入館をあきらめた。

そのまま歩いて藝大美術館へ。所蔵作品展「藝大コレクション展 2019」を観る。とても良かった。

池大雅「富士十二景図」12幅、一月から十二月までの連作。手を変え品を変え、持てる技術をあらかた出し尽くしましたという感じの様々な技法が駆使された連作という感じだが、技の冴えがどうこうというよりも、季節ごとの違いというか、季節が違うとはどういうことかをしみじみと味わえることが本作の貴重さだろうと思う。季節の違い。それはつまり観るこちら側と観る対象との距離感の変化なのかな、と思った。一月や二月の景色は果てしなくてとらえどころがなくて、恐怖をおぼえるほどどうしようもなく広大な空間に、対象がぽつんと小さく存在しているけれども、五月、六月と季節が変わるにつれて、物がその存在感を主張してくると共に観る者と対象との間の空気の質も変わって、それがすなわち距離の変化として絵を動かしていく。

絵巻物でもそうだけど、日本の美術は、横への移動が好きなのだと思う。何もないところから始まって、やがて何かがあって、うごめいて、しかし結局再び何もなくなって、それではじめに戻ると。それが循環するという物語が。

 狩野芳崖「悲母観音」…。この絵は困る。「す、すごい…」と言いたくなるような何かはある。画面の隅々にまで気合と繊細な工芸的技巧の成果がみなぎっていて、あまりの高密度が、かえって凄絶な空虚感すらひきおこしているほどだ。
とにかく、すごく変な絵だ。安い天井画というか映画看板のようにも見える。異常にわかりやすくてツルツルでノッペリした高級なイラストのようでもある。その通俗性と精緻さの融合が、何とも不思議な感じで、これぞまさに、良くも悪くも日本近代日本画のたたき台でありながら、西洋と東洋があたかも日式中華料理のごとく一つの鍋のなかで渾然と煮詰められて掻き混ぜられたかのような、それ以降連綿と続くであろう独特の様式の既に完成形でもある感じだ。

けっこうしつこく見つめていたら、ほんの一瞬、観音像の衣や紐類のたゆたっている感じがデュシャンの大ガラスの光を反射した表面を見ているかのような錯覚におそわれた。

芳崖という人は、生涯苦労したのだろうなとは思う。それはごく短いキャプションの説明を読んだだけで感じられる。人物評伝みたいなものがあればさぞかし面白くなりそうに思うがどうか。

その他、高橋由一が船で上海に向かっているときのスケッチ集が良かった。やはり、この人はとても上手なのだな。描いた人をとても身近に感じられるような大変いとおしく感じられるスケッチ群であった。

藝大美術館を出て、近くのスカイ・ザ・バスハウスでアニッシュ・カプーア / 遠藤利克 / 大庭大介 / ヴァジコ・チャッキアーニの展示も観た。カプーアは、今ここに、目の前にある物質のはずなのに、どんなに目をこらしてもそうじゃないものにしか見えない、特殊映像のようなものにしか見えない。そのようにしか見えないから、いつまでも解決が訪れないから、観るのを終えられない。それを強引に打ち切って観終わるしかない。もし作品に直接触れることができたら、ある種の解決が訪れるだろうか?いや、それも怪しい気がする。