イメージの本

秋葉原に寄って、ヨドバシでイヤホンを買う。どうせ失くすから安いヤツしか買わないのだけど買う前に一応試聴はする。音なんて良し悪しというよりも好みで、結局試聴に使う音楽によってえらばれる商品も変わるというか、僕の場合はなぜか昔からリッチー・ホゥティンの"DE9-Transitions"というドミニマルなテクノ(の冒頭10分くらい)が如何によく聴こえるか?を一つの基準としていて、要するにドンシャリ系の単純なテクノ耳に過ぎないのだが、それでもいわゆるバランスの良い音よりもやや偏った音の方をつい選んでしまいがちで、ゆえにバランス重視な傾向を感じさせるソニー製品はふだんあまり選ばれないはずが今日はなぜかソニーを選んでお会計2800円也。そんな価格帯ならどれであれ大した違いはないのだが…。

シネスイッチ銀座ジャン=リュック・ゴダール「イメージの本」を観る。ちょっと今日は寝不足だし体調的にどうか…と一抹の不安はあって、案の定観ているときはやや落ちそうになる瞬間もあったのだが、それでも観ている時間そのものは楽しくエキサイティングであった。相当な割合、引用映像で構成された作品だが、それら映像のほとんどがバキバキにエフェクトがかけられていて、コントラストを極端に上げた四色か十六色くらいに単純化された劣化映像の連続みたいな、電子原色のみがビカビカとまぶしいばかりの、コピーをさらにコピーした結果みたいな、ある意味悲惨なクオリティな映像が、めまぐるしいリズム感で押し寄せてくる。音楽も一瞬背筋が凍るようなゴダールお得意の「じゃーん!!」と鳴っていきなりブツ切れるようなパターンがくりかえされる。(だから如何にもサンプリング的なヒップホップ的コラージュ的なものなのかというと、ゴダールの場合そういう感じもなくて、それはループの快楽に浸るような要素がないからだろうか。)音楽にせよ映像にせよ、ここぞというときは「おお」と思わせるような異常にカッコいい瞬間もあって、そんな映画的な追憶というか過去の愉楽的な記憶としての一瞬のよみがえりを引っ張る気など微塵もなくばっさりと次のベタベタな画像に上書きされてしまう感じで、とりあえず終わりまで黙って見守るよりほかないのだが、この当たり外れの混交の感触から、絵画の体験にかなり近いものを感じさせてくれる映画かもしれないとも思う。それにしてもゴダール、現在88歳だそうだが、本作の底に色濃く感じられるのが、思わず素朴と口にしたくもなるような「怒り」というか、世界への憂い、苛つきの感情みたいなもので、88歳という年齢はとてつもないというか、その年齢の肉体に包まれてるというのがどういう状態なのか想像するのは中途半端に年齢を経た今の自分にはかえって難しい気がするのだが、このような作品をつくって、ある種の感情をひとひら折り挟むようなことをするというとき、何か気の遠くなる感を受ける。怒りとかやりきれなさというものをあきらめることが年齢を経るということなのか、むしろ逆に、抑制が効かなくなることにあるのか。どうしても我慢ならねえ、これだけは言っておきたい、そうでもしなければ腹の虫がおさまらねえ、世界の邪悪に対してこれほどまでに怒れることの眩しさ、近寄りがたさ、いやそんな情けないことを言っていて良いのか、自分もほんの少しでもそれに感化されるべきではないのか、電車内でしょうもない小競り合いのお客様同士のトラブルを起こす迷惑老人になったとしても、それでも世界を憂い怒る気持ちを持っている方が何百倍も人として正しくはないか。映画ラスト近くで引用されたダンスシーンのうつくしさ。やっぱり、あんなカッコよく終わらせるものか、と、やや驚いてしまう。