虚構と制作

RYOZAN PARK 巣鴨にて、虚構と制作「虚構世界はなぜ必要か?」刊行記念イベント(古谷利裕・上妻世海)。

この私を強く規定し、一つの目的、一つの場所に閉じ込めようとする「現実」がある。そして「現実」を弱める、あるいは脱臼させて、それとは違ういくつかの、そうではないかもしれない希望あるいは不安をともなった可能性を、リアルに立ちあらわすことのできる「虚構」がある。

もちろん「現実」も「虚構」も「宗教」も「貨幣」も「国家」も、すべて虚構ではあるが、交差し合うそれらがときにはその場で人を窒息させるような悪い作用をもたらすこともあって、とくに今の時代においては「悪い虚構」ばかりが強くなり「良い虚構」の力が弱まっているのではないか、というおそれがある。

過去、様々なフィクションの恩恵で、(三十年ほど前までの文化、社会、経済状況の恩恵で)どうにか生きていくことができた「この私」がいて、でも今の若い世代の人達は、虚構の力が弱体化した(より「現実」的な力の方向付けに奉仕するタイプの虚構が幅を効かせる)今の世の中で、ほんとうに大丈夫なんだろうか、昔と同じように(どこへも辿り着かない、目的をもたないかのような、遊戯的でその場だけにつつましく生成されるような)虚構の力を受けて、世界の多様な可能性をよろこびをもって信じながら生きていくことができるのだろうか、という心配な思いがあって、いや、しかし昔より今の方が、むしろ状況はより良くなっていると考えることもできるはずで、今は昔とくらべて、目的に対してより効率的にアクセスできるようにはなっているのだし、その意味では、誰にとっても便利で自分の幸せを見定めやすく目的地へ辿り着きやすい世の中になっているとも考えられるだろうと。

しかしその一方で、テクノロジーの恩恵を受ける以前の段階に留まってしまう人達も大勢いるのではないか、今のテクノロジーをそれなりに使いこなせている時点で、その人はある一定レベル以上の「情報強者」であって、そのような人達とそれ未満の「弱者」との格差が、ますます広がっているのではないかと。

現実/虚構の難しいところは、どちらか一方を悪と決め付けられないところで、枠組みのないを思う気持ちと、まったくブレることなく、きちんとこちらを羽交い絞めにしておいてほしい、安定をもたらしてほしいという気持ちが不可分にあって、その揺らぎのなかで、あらゆる小説、映画、音楽、美術に触れている。とくに年齢が進むと自分の死を思い浮かべることも多くなり、余計にそれを思いもする。