言葉

RYOZAN PARK巣鴨の、保坂和志 小説的思考塾vol.4〈人称の問題〉へ。

「神の子が死んだということはありえないがゆえに疑いない事実であり、葬られた後に復活したということは信じられないことであるがゆえに確実である」という、根本的矛盾をはらんでいるからこそ強さを秘めた言葉。この「強さ」とは何か。矛盾を乱暴に無視して断定しているその態度が強いわけではない。そんな人間的な立場の事情でなく、言葉そのものとして強いのだ。では言葉そのものの何が強いのかと言えば、「伝達力」の強さということになるだろうか。言葉の言わんとする内容が、より強く届いてしまう、その衝撃を受けた者が、それを「強い」と言い表わしたくなる。

自分の内に留まり、自分の内でのみ有効な法則に自分がしたがう、自分の外でそれは矛盾に該当するが、それを矛盾か否か判定可能だとする構造とは別に、自分の内部にそれを肯定する何かがあり、それが強さと感じるしかないもので、物理的な隔たりを越えて届いてしまう、そのバカバカしさ、唐突さも含めて強い。

言葉は、矛盾に対する配慮に本来無関係なものとしてあり、意味も、論理的一貫性とは無関係に生じるものだ。

ごく大雑把に、超能力的なものを信じてしまって良いというか、ある程度信じないといけない。心のなかで本当は信じていることを、論理一貫性に照らし合わせて否定してはいけない。

論理一貫性をもつとは、共通・共有の意志を示すための手段で、それは度を過ぎるとある一部の虚構を強固にする作用しかもたない。

上記のこととは直接関係ないが、こんな世の中では長生きしたって仕方ない、とっとと死んだほうがマシだという考え方は、中途半端に世の中に媚びているというか、中途半端な世の中へのおもねりがあって良くない。本来は、世の中とまるで無関係に、勝手に面白く生きなければいけない。何があっても、その面白さをうしなうことは不可能で、その只中で呼吸をするしかない、本質的な受身的存在であること、それを結果的には、死が止めてしまうかもしれないが、そのことを先取りもせずに、呼吸のように、面白さそのものをただ感じ取るだけの存在であるべきだ。こうあるべきという視点さえなくすべきなのだが、言葉の構造上、そうあるべきの枠を出られない気もする、しかしその枠を出ることの出来る言葉が存在する可能性を、素朴に信じている存在であるべきだ。