思春期

埼玉の実家に一人で帰って母親と妹夫婦と共に昼食の会。ここ最近の、自分でもいいかげんみっともないとは思うのだが、つい自年齢にまつわる愚痴めいた話題を振りたくなってしまって、ああもう嫌だ、もう若く見てもらえない、ただのおっさんにしか見られなくて、でもそれを自分で認めたくなくて、そんな自分に対してさらに自己嫌悪をおぼえて、すごい悪循環スパイラルでと、あいからず鬱陶しく喋っていたのだが、それを聞いた義弟は、たしかに自分あと何年仕事できるだろうって思いますからねえ、と言うので、うわあ…その発想、自分はないわ、君、仕事好きだよなあ、自分を仕事とセットで考える発想って自分にないわあと返した。そしたら母が、あんたたかが四十代後半で年がどうって、あたしからしたら四十代なんて全然若いっていうかまだ若者みたいなものよとか言って入ってきて、いやそりゃ貴方から見たらそうでしょうと言うと、違うわよ私自身だって四十代の頃に、もう年取ったなんてこれっぽっちも思わなかったわよ、むしろ四十過ぎてからたくさん広がったわよ、それまでしなかったことも出来なかったことも、やっとするようになったのよと言う。それは母が我々子供二人を自らの働きで支えて、母にとって二十代と三十代まではその労働が生活のほぼすべてだったのが、四十も半ばを過ぎてからようやく時間的にも経済的にもほんのささやかなゆとりを生み出すことができたということを意味している。それはそうでしょうと、その意味ではまあ僕なんかは若い頃苦労したとかそんなこといっさいないので、単に時間が流れたことが気に入らなくて、いやだーいやだーと駄々をこねている図に近くて、もっと言えばその無抑制な駄々をそのまま受け入れてほしいという甚だ甘ったれた態度を抑えきれてない状態でもあり、ほとんどすでに老害の領域に突入済みと言っても過言ではない。でも、まあ正しく今の自分の姿を認識することほど、難しいことはないね、ことに年齢を経た男はそう。これまでの自己愛の、なすすべなき崩壊ね、だから電車で迷惑行為とか、女性に乱暴して捕まる芸能人とか、いい年して不倫するおっさんとか、最近そんな話を聞くたびに思うんだけど、みんな病根は一緒なんじゃなかろうか、きちんと自分を捉えられてないんじゃなかろうか、性的欲望に流されるって、しかも自分の地位や立場を利用して相手を嵌めるような手段をとるって、その卑劣さは最低であって社会的には問答無用の制裁を受けるわけだが、でも今の自分は、それら犯罪者のなかにはじめに巣食って、それをかりたてたもの、その欲望のありようを想像して、なんだか、胸をつくようなようなはかなさ、小さな何かが失われていくことのかなしみを、おぼえなくもないのだ。だからその意味では僕も、すでにほんの一部だけ犯罪者なのだ。神様の前に立てばきっとそう審判されるはずだ。ああもうだめ。おっさん、その存在が哀れで辛すぎる。かなし過ぎる。そんな風に窓の方を向いたまま、外の景色に向かって囁き続けた。すでに周囲は、誰も僕の声を聞いてなかった。外はあいかわらず小雨が降り続いてる。

…夜になって駅前の居酒屋へ行く。約十年ぶりに、小学校の同窓会に参加するためである。同級生に律儀というかそういう同窓的なものを好きな人がいて、初開催の十年前以降もご丁寧なことに毎年開催されているようなのだが、僕は誘われるたびに断ってきた。今回は私も参加するからお前も絶対参加するようにと、ある友人から言われたので、今回は仕方なく出席することにしたのだ。十数人のこじんまりした会だった。はあ、どいつもこいつも年寄りばかりだと思わずにはいられない…などと言うと言い過ぎというか、失礼というか、自分を棚上げの感も酷いのだが、よくみれば皆さんそれぞれそんなおじさんおばさん一般に解消できてしまうような単純なことではなくて、それはよくわかるのだが、まあそれでもこうして会うことが、けして楽しくはない、むしろ気の滅入るようなことではあるよねという思いは変わらない。まあさすがに不機嫌さをあらわにするような幼稚な態度は当然慎んで、それなりに楽しいひとときを過ごしはしたけど、まあ、やれやれだわと思った。帰りの、池袋方面に向かうガラガラに空いた電車の中で、また性懲りもなく窓ガラスに映る自分を見つめて、憂鬱さにつつまれて、はあ…とため息をつきたくなる。そのとき唐突に、もしかしたら今の自分は、三十年ぶりの第二次性徴期に突入したのではないか、まるで相手のいない片思いのような、その思春期的メランコリーの中にいるのではないかという考えがひらめいて、また喉元から嗚咽を含んだようなため息がのぼってきた。このままいけば、あともう一歩で犯罪者だと思った。