Coyote

通勤電車の中で、"Coyote"を歌うジョニ・ミッチェルのCDに付いていた歌詞カードの字面を追いかけながら音を聴いていたら、朝っぱらから感極まりそうになった。もちろん何度も聴いたことがある曲だが、それでも聴くたびに思うが、この曲にはひときわ鮮烈なものがある。これは別離の歌だが、別離とはこれほどまでに爽やかで健やかなものだろうか。感極まりそうになるのは、かなしみとか哀れさによってではなく、その純度の高さと混じりけの無さによってだ。どれほど丹念に詩を追いかけても、このサウンドが平然と別次元へ聴く者を連れて行ってしまって、いや違うよ、お前の考えてることよりも、本当はもっとずっといい感じなんだよと、曲自体に諭されて、何度も裏切られて、何も手元に残らない、その爽快さそのものに泣きそうになるのだ。

やがて、その女性が自らの執着を捨てようと決意する。相手の男は"Coyote"に例えられている。あるいは、かつて二人がカナダの平原で見たことのあるCoyoteのことかもしれない。彼女はCoyoteに対して歌っているようだし、Coyoteのようなあなたに対して歌っているようでもある。

後悔しないで。貴方が引っ掛けたのは、単なる通りすがりの女に過ぎないんだから。貴方が引っ掛けた女は、フリーウェイの上に引かれた白いラインの上を移動するだけの囚人に過ぎないんだから。

貴方は、貴方自身の闘いを戦わなければいけない。そして私もだ。私は、私自身の執着から、身を引き離さなければいけない、私自身の中に燃えている炎から、身を引き離さなければいけない。

自由になったはずの自分を「囚人」だと言っているのが面白い。"Coyote"と対になった"prisoner"、彼女にとって恋愛の中にいることこそが自由で、出会う前も、男と別れてからも、彼女はハイウェイの白いライン上の囚人であるとの自己認識なのか。そこには音楽家であること、仕事をすること、義務に仕えるものであることの諦めと矜持が秘められているような、そんな風に感じても良いのだろうか。(演奏旅行のために、ひたすら移送されてるだけ…というニュアンスを感じもするが。)