観能

風邪の予感、喉の状態やや不調。

銀座の観世能楽堂で第二十六回能尚会。番組は能「砧」、狂言「千鳥」、仕舞「頼政」、能「船弁慶」。「砧」も「船弁慶」も、別離を前にした女性の苦悩が、テーマのひとつと言えるだろうか。「砧」では長く旅立って戻ってこない亭主を妻が思い、砧を打ちながら舞い、やがて力尽きて亡くなる。その後、亭主の前に幽霊としてあらわれた妻が、舞いながら亭主への恨みを述べ、やがて成仏する。「船弁慶」では前半において西方へ逃亡する義経と弁慶一派から離れざるを得ない静御前のかなしみが舞いとして表現される。

但し能は感情表現ではなく徹底した様式表現なので、それを「この私の記憶にある感情」と単純に結びつけてしまって良いわけではない。というか、単純に結びつかせないための厳格な様式が生きていて、その型を見詰めることしか、とりあえず許されていない。シテは「演技」をしているのではなく、型を踏襲している、その精度に賭けているわけだ。

地味で、如何にもお能という感じの「砧」にくらべて、「船弁慶」ははげしく活劇的であり単純に見ていて楽しいものであった。格調高い大河ドラマ・・・とまで言うとひどいが、子供(子方)もいるし弁慶はイケメンだしクライマックスは幽霊との闘いだし、惹きつけられる要素を多く持つ、能にだけ可能なエンターテイメントという感じだ。もっともそういう受け取り方は「能」の本質的なものとは相反するというのをわかるべきなのだが、それでも面白いのは確かだし、面白さをやや前に出しているのでは?という感じもする。