夫婦

風邪まさかの悪化。呼吸器系総じて不調。喋るのにも難儀するほどだが仕方ない、いつも通り出勤。

妻と二人で暮らす、しかも二十年もの時間を、それはどういうことだろうか。我々には子供がないし、共通の友人も少なく、毎週末はほぼ同じ時間を共有して過ごず、そのような生活を続けている。たまに「ケンカすることありますか?」と聞かれることもある。ケンカは…しないなあと思う。そう言われてみると、もう何年も、ほんとうにケンカしてないと思う(僕の記憶では…ですけど)。それは仲が良いとも言えるのかもしれないけど、長い年月を経てケンカを回避する能力がお互いに養われたからではないかとも思う。

ケンカしないのは、仲が良いからです、とは言えるかもしれないが、より現実に沿った言い方をするなら、ケンカしないのはお互いが上手くすみ分けているからです、とも言えるのだろう。

あなたがた二人は、休日とか、ふだんどう過ごされてるんですか?などともし聞かれたら、どうしようか。ここは物怖じせずに誇り高く「我々はいつも二人で文芸、音楽、美術など、文化・芸術一般と共にある生活を送りたいと願い、それを実践するよう努力しているのです」とかなんとか、堂々と言ってやれば良いのだ。そういうことは、きちんと言えば、言われた方もさほど驚かずに、なるほどそうですか、いいご趣味ですなあとか、適当に上手いこと返してくれるものである。

というか、さっきから何を書きたくて、ここにくどくど書いているのかと言うと、とりあえず僕は、とくに我々夫婦について書きたいと思ってるわけではなくて、ただし、これを受け止める側の気持ちをあらかじめ忖度しているというか、こういう出来事が成り立つ前提として、少なくとも僕はこういうスタンスなのだよと、改めて自己確認する意味で書いているのだと思う。

要するに僕はこれから、妻をディスる感じの文章を書くことになる…いや、僕はまったく妻をディスる意図はないし、その理由もない。これは、この文章は相手をディスってるわけではないと、以下を読んだ人もきっとそう感じてくれるはずだと思うのだが、なにしろ妻本人が、私ブログ上で亭主にめっちゃディスられてる、と感じないことが保証済みというわけでもないな…とは思うのだ。まあ、先を進もう。別に何のことはない、とても些細な出来事で、こういう事ってしょっちゅうあるよねという、取るに足りないあるある話の一つに過ぎないのだ。そんなエピソード例の一つに過ぎない、そう思ってさしつかえない。

たとえば、昨日の午前中だったか、なんとなく細野晴臣を聴こうと思って、棚の奥から昔買ったDVDを引っ張り出して再生したのだった。その時、妻はアイロン掛けをしていたのだったか、洗濯物を干していたのだったか。

東京シャイネス(初回限定盤)のボーナスディスク。伝説の「豪雨明けライブ」全9曲で、ああそうだったか、小坂忠と歌った"ありがとう"はこれに収録されていたのだったかとクレジットを見て思い、もしかして、無意識のうちに"ありがとう"を聴きたいと思っていて、これを選んだのかもしれない、などと考えつつ1曲目の"ろっかばいまいべいびい"から聴き始める。お客さんが、ずいぶん盛り上がってるのね、と妻が言う。そうね、これ当時、うちの実家の隣駅で開催されたらしいよ、と答える。2005年の夏の映像である。MCで細野晴臣が言う。「ニューオーリンズは大丈夫かな…。アラン・トゥーサンが行方不明だって聞いたけれど…、今どうなってるんだろうね?」その後「あ、そうなの?アラン・トゥーサン無事!助かったんだ、ああ、良かった!」当時アメリカ南部に大きな被害をもたらしたハリケーンカトリーナのことを話題している。

曲は"終わりの季節"、"恋は桃色"と続く。ああ、そういえばレイ・ハラカミの"終わりの季節"は素晴らしい解釈だったなと、あの感じがふいに思い出されて、DVDを一旦止めてアンプのファンクションをiPhoneの出力に変更する。久々のレイ・ハラカミバージョンを聴く。妻はその頃、ちょうど仕事を終えて、ちょっとシャワー浴びてくると言って、席を外していたはず。

レイ・ハラカミバージョンの"終わりの季節"では「それで、救われる…」という言葉がちっとも救われてない感じに聴こえてくるのだが、そこがいいのだよなあと思いつつ、また音源をDVDに戻して再生する。曲は"幸せハッピー "で、いよいよ次が"ありがとう"だ。YouTubeで観たやつとここに収録されてるヤツはおそらく違うんだろうけど、どうなんだろうか。妻は浴室から戻ってきて、髪をバスタオルで拭いている。

そして、"ありがとう"の演奏がはじまる。それとほぼ同時に、妻が髪を乾かすためにドライヤーのスイッチをONにする。スピーカーの音は掻き消え、ドライヤーの作動音が部屋中を満たす。

"ありがとう"の演奏が終わる。ほぼ同時に、妻がドライヤーのスイッチをOFFにした。部屋が静かになって、スピーカーから客の拍手が聴こえる。

おお…とひそかに驚く。これはまるで、ことのはじめから結末がこうなることを、僕たち二人のどちらもわかっていたかのような、見事なまでのシンクロではないかと。このDVDを選ぶ瞬間から並列のプログラムが同時進行していたのではないかと思うような見事な出来事に思えて、しばらく無言で妻を見ていた。妻は「は?」という顔でこちらを見ている。

今回に限らず、こういうことを、ここに書くと、それを読んだ妻は、大抵激怒するのであるが、それは怒りに値しない些細なことなのだと、この場を借りて書き付けておきたいのだ。妻と二人で暮らすということの不思議さは、生活の様々な場にあらわれては消えるのだが、そこには些細ながらも確実に「何か別の作用」が介在して、我々が共有する時間を絶えず活性化させようともくろんでいるかのようなのだ。