day4

酷暑きわまりない。吉祥寺で買い物は、さすがにちょっと厳しかった。暑さ、ただそこにいるだけで、意味もなく、消耗し、なんとなく、こころを削がれていく。そしてグラスに満ちたビールに逃げる。日が暮れてからアップリンク吉祥寺でチャン・リュル「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」を観る…が、前半一時間ばかり、完全に熟睡してしまいました。なので後半過ぎ以降しか観てないのでいろいろよくわからない箇所も多いのだが、これは、なかなか良かったと思います…。(本当に)

 

この休暇中はおもに幸田文ばかり読んでいる。講談社文芸文庫の「駅 栗いくつ」。読んでいて自分はなぜこれほど幸田文を読むのが好きなのか不思議に思うことがある。というより、こういうのは一切受け付けない、どこが面白いのかわからない、という人も、少なくないのではないか、とも思うのだ。

 

夫婦とか、親子とか、嫁と姑とか、主人と家政婦とか、そういう人間同士の関係がテーマだ。今やそういうのは地獄の強迫神経症というかストレスそのもの、逃れたいもの、自由になりたいものの筆頭ではないかと思う。そしてそれはおそらく今も昔も同じだ。ある意味昔の方がキツイところもあるだろうし、今の方が今なりにしんどいところもあるはずだ。しかし、そういうことではなく、そういうことは別に本の中に書いてあるわけではなく、それ以外の情報があたりに臭気のように漂っているだけの話で、この本自体の内容はそういう一般論ではない。僕はどうもこの文章の書き手の、書く対象に対しての構えが好きなのだ。もう我を忘れて夢中になるほ好きだと言っても言い過ぎではないかもしれない。

 

この書き手もかなり、こうあるべき、こうでなければいかん、その強い意志はある。それは否定できない。あるどころか、ほとんどその塊みたいな人だ。しかしその人が他者をみて、さあどうしようと考えて、ああでもない、こうでもないと考えて、あるときふと考えがまとまって、バタバタっといくつかの要素を並べて整理して、こうしてみたらどうかと展開の準備をするときの、その仕草の綺麗さというのか、しなやかさというのか、所作みたいな、運動のきれいさみたいな、そういうところに強く惹かれるのだ。たぶんそういうこと以上でも以下でもないのだ。というか、僕はいつになっても結局そういうことにしか惹かれないのか。それ以上の理屈はわりとどうでもいいというか、自分と全然べつのタイプに惹かれることが未だに多すぎるね。でも自分みたいなタイプに惹かれるなんて、むしろその方が難しいだろう。誰がそんな愚鈍なものを好きになるかという話である。でも、誰かに好かれたいとも思うのだ、恐ろしいことに、ことに老人に近づきつつある男性はその傾向が高まるので要注意である。

 

話がそれたが、「駅」と題された連作はどれもため息が出るほどの傑作揃いだった。どれが好きだっただろうかと、本をぱらぱらと見返しているのだが、まあ一々書いてるとキリがない。序盤の若い奥さんが出てくるやつとか、十代の少女が肺病の病院で働いて患者の青年と出会う話とか、まずこの書き手の若い女性を観察するときの眼差しの冷酷さがほんとうに素晴らしい。ほんとうに容赦ない。はじめはかわいらしかったものが、そうでなくなっていく、そのことを、その原因も推測しつつ、悪意ではなく客観でもない、ほんとうにその人の地に足のついた言い訳のない方式で突き詰めて描いていく。それはけして悪いものではない。物事の変遷が戦慄するほどの正確さで描かれているという、それだけのことなのだ。しかしそれが同時に人間のことでもあり、若い女性のことでもある。

 

物事が正確に描かれているということは、それだけで、なんと人の心を安らかにするものだろうかと思う。感じ続けているのは、おそらくそういうことだ。