新しい領土

今週は橋本治の「恋愛論」を読み返していて、これで何度目なのかわからないが、しかしこの本は今更ながら傑作すぎるというか、すべての行に重要ラインを引きたくなってしまう。おそらく昨日書いた、“男と女がそのまま恋愛することはおそらくもう無理なのだ。”というのは以下を読んで、そう思ったのだ。

 

俺が本読むの嫌いって話はアチコチでしてて、そんなこと、俺の中学高校時代がこうまでアカラサマになった以上もう分かるだろうけど、本なんか読んでる暇ないんだよ。ジッとしてるの嫌いだしサ、胸の中には“恋”っていう最大の娯楽があるしサ、それがあれば二時間や三時間、平気でぼんやりしてられるしね。だからサ、推理小説でもなんでも、本ていうのを一冊読むのには、少なくとも一週間はかかる訳。ヘタすりゃ一ヶ月もかかるけど。ともかく読むのかったるいからサ、途中まで来て、最後の結論読んじゃうの。推理小説なんて、犯人が誰か分かってからじゃないと安心して読めないっていう困った人だったんだけど、その、一足飛びに結論に行っちゃうのってのが僕ね。一人でいる時は、もう、平気で現実見失っちゃうんだ。そんで、彼と会うと、彼は必ず違う種類の現実ってものを持って待ってんだよね。「あン!僕の待ってた現実と違う!」って必ずすねるんだけどサ、結局彼が、なんらかの形で、僕のこと待っててくれるっていうのは、最早、時が経ってくれば確かな訳。そういう、“現実”の前では、一切の妄想っていうのが力を失っちゃうんだよね。

 

僕はもうやっぱり、初めて「どうしよう……好きになっちゃった……」てなった時から、「これは通るものではない」ってことを知ってるから、「どうすれば通るか」ってことだけを、ホントにもう、常に考えてんの。僕の持ってる感情と、彼の持ってる現実ってのは、どのようにどのようにすればスムースに噛み合うのかっていうのがあるから、もうホントに、ちょっとずつちょっとずつ、ある筈のない恋愛ってのを作り出してて、そのたんびに、自分の妄想ってのを捨てて行ってるのね。

 

「あ、こういう現実も素敵。こういう現実がもっとアッチの方に伸びて行ったら・・・」って考えながらも、「伸びようと伸びまいと、でも今僕、とっても幸福だからいい」って、そういうことしか考えてないの。

 

俺の最大の愚かしさってことを考えたら、それはもう、自分が幸福であるっていうそのことを、あまりにも軽く見過ぎていたっていう、そのことだけね。今となってははっきり分かるけど、自分の妄想を完成させることが恋愛を生きることじゃ、決してないのね。前の方で言ったけど、恋愛って、やっぱりキチンと終わるもんなんだよね。それは、「君が世界で一番好きだよ」っていう言葉で終わるのかどうかは、残念ながら今のところ、分からない、僕はそういう終わり方をしたことがないから。

 

ただし、もうはっきりと分かるっていうことは、恋愛っていうのは、自分ていう海の中の離れ小島と“陸地”っていうものの間を、妄想というものをドンドン捨てて行って埋め立てていくことによってつなぎとめる作業だと思うの。妄想がドンドン捨てられて行くから、恋っていうのは、ちゃんと終わるんだよね。そして、その埋め立てられて、ちょっとずつ陸地が現われて来る、その状態のことを“幸福”って呼ぶんだよね。

 

僕は今、“幸福”って言葉は頬ずりしたいくらいに好きね。なんでこんなこと唐突に言うかっていうと、実は僕、自分のことあんまり幸福だとは思ってなかったの。自分じゃ幸福だってことは分かってても、それは、大人の目から見りゃ大したことない中途半端なもので、ホントにつまんないもんばっかりかき集めてるんじゃないかって、そう思ってたの。大人の目から見りゃ「つまんない」どころの騒ぎじゃなくて「気色悪い」とか「異常」とかいうようなもんだろうしサってのも勿論あるし。でもサ、僕サ、こないだね、よく考えたら、“大人の世界”っていうのはホントにつまんないもんなんだって、そう思っちゃったの。分かっちゃったっていう方が正解かもしれない。なんか、大事なもん抜かして、抜かしたその上にベッドが一台あって、その宙に浮いたベッドをすべての基盤にしてものを考えるのが大人の世界なんじゃないかって、そう思っちゃったのね。「なんて貧しいんだろ」っと思っちゃって。もしもお金の量を計る基本単位が“幸福”ってモノサシだったら、俺、ひょっとして世界で一番の金持なのかもしれない、とかね。

 

“自分”ていう離れ小島がポツンてあってサ、その周りを膨大に海がとりまいててサ、それを埋め立ててって、遠い、“陸地”と地続きにしちゃっていって、その“陸地”ってなんだろうって言ったら、“現実”だっていう答が簡単に出て来るかもしれないけど、じゃア、その“現実”ってなんなのサ?って考えたら、それはなんだか、分かったようで分かんないような話だなってことも思うのね。恋愛が結婚に続いてくって考えでいけば、その離れ小島と地続きになる陸地は“結婚”でしょうよっていうのもあるけど、僕の場合は、実は違うのね。これから先はどうか分かんないけど、今までのところで行けば、離れ小島と地続きになって行く陸地っていうのは、実は“自分”なのね。

 

妄想みたいなもの全部“海”に捨ててーーそれは結局、捨てさせてくれるような人間達が現実にいたからだってことだけどサ、そうやってって、結局、過去の自分ていうものが一番安易に考えてた未来とは、全く別の、そしてもっともっとずーっと明確な現実っていうのが、実は、現われてくんのね。

 

一歩一歩、知らない間に埋め立てられてって姿を表わした陸地の上に立って、そしてそれでその先を眺めて見ると、それはもう、前とは全然違った基準に立って物事を考えるのとおんなじなんだよね。それはホントにちょっとずつだし、何がどう変わっていくのかもホントのところはよく分からないけども、でもやっぱり、それは妄想の中にいる自分の考えてた未来っていうのとは、やっぱり全然違うものなのね。考えてるようでいて実は、妄想という名の離れ小島の中にいる時人間は、「自分の未来なんかなんにも考えてなかったんだ」って、そのことだけは分かんないでいるの。いくらそれがどうにもならないことでつらいからって、泣いたり喚いたりしたって、妄想の中で考えてる“その先”っていうものは、実は、一番安易でいい加減なものなのね。そんなもの分かってるくせに、でも、それを考えてる自分のいい加減さを認めるのがいやさに、妄想っていうものを強固にしてくのが、大人の世界の恋愛なのね。だから、恋愛っていうものは、完成させちゃったら、大人の世界では終りなんだ。

 

“幸福感”ていう、実に錯覚の多い、妄想のレンガを積み上げてサ、それで立派な“恋愛”なり“結婚”なりを作り上げようとしたってサ、その行き着く先は、そこに閉じこめられるっていう、それだけなのね。“恋愛感情”っていう、妄想の元になるようなものを外気にさらして、そのことによって生まれる現実と、海の中に消えてく妄想とを振り分けて、そうやって、ほとんどなんの意味もないような“幸福”っていう新しい領土を踏みしめていくことの方が、恋愛っていう立派な妄想の中に閉じこめられることよりもなんぼか幸福かって思うの。

 

橋下治「恋愛論