僕もだけど、字が下手な人は、書いたそれを、俺の字って下手だなあとつくづく思う。自分から出たものの不恰好に辟易している。字が下手な人にとって、自分の書いた字は自分の滓というか、自分から切り離されたもの、自分をこれっぽっちも表現してないものだ。でも字が上手い人が字を書いてるときは、その字を見ながら、今日はまあまあだなとか、悪くないとか、ある種の満足感というか自画自賛の思いのなかに、その字が自分のコンディションみたいなものをある程度あらわしていると自分で思えるのだろう。だから字というものへの気持ちの入り方というか、それがあらわしてるものの量が、下手な人とはまるで違うのだろう。

 

ちなみに、絵が上手い人で、字が下手な人は、たくさんいるだろう。そして、絵が上手い人で、字も上手いっていう人も、当然いる。(ここでの「絵が上手い」はものすごく通俗的な意味で考えられたし。)絵も上手くて字も上手い人は、字を書くときつまり、絵を描くように字を書いてるらしい。つまり全体を見て、部分であり図である字を見て、それを的確に配置しようとしてるらしい。意味内容ではなく、いわば座標操作的行為として、字を書いているらしい。

 

「でも、それって、心がこもってないね。うわべだけの字って感じだね。」

 

「もしそうなら、絵もうわべだけのものだろうか?絵は心をこめて描くものじゃないというか、絵に心をこめるとしたら、字とは別の、心のこめかただな。なにしろ絵は絵のぜんたいが、絵ということだから。」

 

「意味がわからない、いや、わかった。字は字全体が字じゃなくて字は一個一個の組み合わせでようやく字だから、全体を集めても何でもないものだから。」

 

「でもおそらく、絵も字も、心がこもってなくても良いのではないか。」

 

「やり方さえわかれば。心をこめたいけど。」