晩夏

朝から真夏の青空と弾力を感じるほどの積乱雲、窓の外が膨大な光に満ちている。それでも台風が近付いており今日の天気が崩れることは間違いないから、早めに買い物してこようと午前中のうちに近所へ買出し。帰宅三十分後くらいに突如として空が暗くなり激しく雨が降り出す。ベランダを開けていると跳ね返った飛沫が足元や膝まで届く。向かいの家々の屋根に猛烈な勢いで雨の粒が落下し、はげしい音とともに跳ね返り、飛沫をあげて、濛々と水煙を立ち昇らせ、視界のほぼ半分くらいまで白く曇って広がる。やがて音が弱まり、あっという間に雨が上がって、今までがまるで嘘のように空が明るくなって日差しが差して、雨でずぶ濡れになっているすべての事物を照らし出すので、水分がまた一気に蒸発して空気の状態が変わっていく。

 

季節としての夏には、誰もが魅了される。これほどの自然現象や気象のダイナミズムを体感できる季節は、やはり夏だけだろうなあと思う。四季折々の水墨画における茫漠とした湿度につつまれた夏の図、あとはこの光の量。

 

夏が終わるのはつまらないことだ。たとえば夏が終わると、女性の服装が薄着でなくなるのがつまらない。そんな男の意見、若い女の、むきだしの肩や、サンダルをひっかけただけの素足、それらを景色の中に見ることができなくてつまらない、そんな言葉さえ、この季節だけの固有性を含んでいて、路面に跳ね返る通り雨や、そそり立つ積乱雲の景色がうしなわれるのを惜しむのと変わらないことに感じられたりもする。

 

そういえば昨日、上野公園内にも芸大生たちが出店を出していてTシャツだの自作小物だのを展示即売していたのだが、みんな可愛いというか、大学生ってこんなに幼い少年少女だったっけとあらためて思った。暑いのに大変だろうけど、みんなお店屋さんごっこが楽しそうで、まるで募金を集めてる中学生とまなざしが変わらないではないか。・・・こっちは暑いから早くビールが飲みたいだけの人。ビールを求めて上野の森美術館脇の階段を降りて人混みにまぎれこむ。交差点で信号が青に変わるのを待つたくさんの人々老若男女、あまりの暑さに誰もが苦渋に歪んだ表情をしている。そんな群像を見て、なぜかちょっと笑いそうになった。

 

最近は橋本治の「桃尻娘」を少しずつ読んでいるのだが、けっこう長くてなかなか読み終わらない。しかしこの小説、登場人物ではやはり榊原玲奈がとても素晴らしくて、というか僕にとっては、この15歳か16歳の桃尻語の少女の言葉はほとんど幸田文の言葉と地続きで読めてしまうというか、はっきり言って橋本治幸田文とあまり変わらない位置にいるというか、むしろ地続きの仕事をした作家とも言えるのかもしれないなあ・・・などと、聞く人が聞いたら「??」となるようなことを思いながら読んでいるところだ。また、具体的にどこがとは言えないのだが、東京が舞台であることの磁力を始終感じているような気がする。東京の小説だなと思う。

 

磯崎憲一郎「日本蒙昧前史」第三回(文學界2019年10月号)を読んだ。「予期せぬ事態が起きたとき、自分に原因があると考える、その自己中心的な態度こそが不遜なのだ」という言葉が胸に刺さる・・・。