三人の女

橋本治的な恋愛モデルの構造を例示的に書くとこうではないか。(「恋愛論」と「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ後編」を参考に)

 

未だに甘えることを許されている子供としての男性「彼」。親や実家に資産があるとか一方的に愛情を注ぎ込まれたとかそういうことではなくて、要するに、きちんと送り出されてない人。甘えを断念する必要がなかった人。だから年齢だけ大人になっても、子は愛情から解き放たれた実感を持ってないし、親も子が自らの手を離れていったという実感を持ってなくて、そんな儀礼を通過してないから、おそらく今でもそのままの時間が続いている。

 

そんな彼の知り合いとして、次のような三人の女性がいる。

 

一人目のAさんは、彼と趣味の傾向が似ているのでとても仲良く話ができるし、彼の良い点や考え方について彼女なりの深い理解を示してくれている。また彼から見てもAさんは聡明で知的であり、生活のあらゆる局面に対する姿勢や取り組みの姿勢がうつくしく、まっすぐな向上心をもった健やかさがあって、彼はそんな彼女を好ましく思っているし尊敬もしている。

 

二人目のBさんは、彼の得意分野である趣味の領域に以前から強い憧れをいだいており、できれば彼からその話をもっと聞きたい、もっとその世界に触れたいと思っている。Bさんは若くて美しい、おそらく彼が知る女性の中でも飛びぬけて美人である。そしてBさんは知ることへの興味が旺盛で、新たな知識を得ることに積極的な人だ。彼は時折Bさんと話をしながら、彼女の若さに満ちた好奇心を眩しく思う。

 

三人目のCさんは、彼が日常的に気安く話をする相手で、二人はとても仲がいい。いつも雑談が大いに盛り上がるけど、それはおそらくCさんが無類の聞き上手だからだ。意外なことにCさんと彼は、趣味も話題も共通する部分がほぼ無いし、これまでの生き方や考え方や、物事の捉え方もかなり違う。とても凡庸で保守的な女性、とCさんのことを彼は思うのだが、ユーモアの感覚を共有する相手としてのCさんは自分と抜群に相性が良いとも感じている。二人で話しているときの面白さは他に類を見ない、できれば彼女といつまでも話をしていたい、と彼は思っている。

 

タイプの違う三人の女性と接するなかで、甘えることを許されている子供である彼が、では誰にもっとも魅了されるのか?と言えば、それは他ならぬCさんということになる。なぜなら、AさんとBさんは、彼にとって自分の世界の範疇にいる人で、Cさんだけが「謎」であるから。すなわち得体の知れない他人という「謎」。

 

三人の女のうち、彼のことを一番理解してないし必要ともしてないのがCさんなのだ(と、彼は思っている)。彼に自分なりの理解を示すAさん、彼に未知への期待を見込んで必要とするBさんは両者共に、未だに甘えることを許されている子供としての彼を、文字通り許す存在だが、Cさんだけは彼を理解せず必要ともせず、関心の外側に日常的な交遊の相手とだけ見なしている、それなのにCさんは、彼の目の前でこの上なく楽しそうに笑い、彼とのひとときを楽しんでいるように、彼には見えるのである。そんな女性は彼にとって巨大な「謎」である。

 

未だに甘えることを許されている子供としての彼は、なぜこの女性が私と親密でありながら、この私に価値を見出さず、すなわちこの私に"あなたの欲望"をあらわさず、私に対して「謎」のままでいられるのか、その理由がわからない。今そこにある親密さの内実と理由がわからない。

 

ゆえに彼は不明に苦しみながら、Cさんに魅了されることになる。