甲州

錦糸町から7:08のあずさ3号に乗る。朝早過ぎでしょと船橋から乗ってきた隣席のKさんに言う。Kさんは超朝方タイプの人なので、平日も会社に着くのは朝七時半くらいだとか。今日のスケジュールも彼女のプランによるもの。会社行くより早起きして、これから酒を飲みに行くとはとても思えないのだが、しかしコンビニのサンドイッチと缶ビールで簡単な朝食を摂ると、一応それっぽいモードにはなった。

塩山に到着したのは9時頃。MさんとEさんと合流。計四人タクシーで勝沼ぶどう祭りの会場へ。一年前に来たときはかなり大量に試飲してその後もいくつかのワイナリーで試飲してその後ディナーでフルコースまでやって、結果ふたりダウンして一人は宿泊を余儀なくされるというアクシデントもあったために、今回は最初から体調優先で無理しないを合言葉に各自しっかり自己管理の上でのぞもうとの誓いを取り交わしあっていたのだが、それでも気になるワイナリーは大体試しただろう、というところで撤退。さすがに皆さん自分への警戒心が強く一時間もいなかったはず。

続いてKさんのご親戚であるO家へ伺う。去年おみやげをいただいたりしたので、お世話になりましたとご挨拶だけして立ち去る予定だったのだが、結局客間までお招きいただくことに。でも、O家、良かった。今日の白眉、そんな時間だった。O家は葡萄農家で、ハウスが立ち並ぶ中に建つ昭和を感じさせる日本の家屋。田舎らしく広々とした庭に縁側が突き出ていて、十月とは思えない日差しがめいっぱいあたっていて、傍らの座布団には猫が丸くなって眠っている。窓は大きく開け放たれていて、広い間取りの客間は光に溢れた外と明確なコントラストをなして暗闇に沈んでいるかのようだ。しかし座布団に腰をおろしてこの客間から外を見ていると、冷房もなく単に屋根の下にいるだけなのに、さっきまでの暑さが嘘のように快適なのだった。夏とは、こういうものだったはずと思った。もうずいぶん前に訪れた京都のお寺で、夏の日差しを見ながら畳の上に座っていたときを思い出した。あのときもやはり、単なる庇の下というだけで外の暑さと光が遮られて、日本家屋の不思議さを思ったものだった。太陽の日差しに持っていかれた体力がゆっくりと回復するのを感じながら、外の燃え盛るような光の横溢をぼんやり見ているばかりだった。

Oさんご夫妻、共にご高齢だが、ご主人はモロに甲州言葉で、ああこれぞ…と思うようなあの抑揚で、気さくにお話して下さる。奥様は甲州出身ではないのだが、とても話の面白い、というか歯切れの良さ、話題の伸ばし方と切り方の素晴らしく知的に配慮の効いた、話題の適切さの、ああこういう感じ、この心地よいさっぱり感、こういう女性、こういう時間いいなあ…と、相槌うったり笑ったりしながらひそかにうっとりさせられるような、とても好ましいひとときであった。卓には冷たい麦茶が供され、やがて信じがたく大粒で身の引き締まったシャイン・マスカットが登場し、その後ワインと杯が配置された。こんなおもてなしは、我々としてはまったくの想定外でひたすた恐縮するばかりなのだが、しかし出て来たものは仕方がないとばかりに持ち前の図々しさを発揮する。一見ぶっきらぼうな一升瓶は現地の醸造場でつくられた白ワインである。盃は酒造会社名の入ったガラス製のたぶん半合くらいの器だ。一口味わって、ああこれは全然いい感じではないかと、まったく問題ない出来だと内心感じた。辛口で非常にバランスが取れていて、これは普段使いとして大いにありえるヤツだと思った。昔っから、こうして、一升瓶で、昔は日本酒の御猪口で飲んどったけど、今はちょっと洒落て、家みたいな農家にも、こんな杯が配られるんですよと奥様が仰る。

日本の、甲州のワインはもう充分知名度も上がっており大成功した分野だと思われるし固定ファンも多いだろう。ワイナリーを問わず僕は甲州ワインをのむたびに「そうそう、これが日本」と思う。キレとか酸が繊細で細くて、甘さはいくらでも出てしまいそうなところを自ら抑制しているようで、骨太な感じはなくて、つつましくて、全体的にきちんと落とし前付けました、みたいな印象だ。音楽で例えれば、洋楽前提で邦楽があるみたいな感じに似ている。つまりやっぱり洋楽にはかなわないだろうと、心のどこかでは思っているのかもしれない。でも生産者や農家の人々は何十年も前からそれを地酒として飲んでいたりもするのだ。それを想像しないまま、日本の甲州のワインをわかった気になるのは浅はかというものだろう。その地産の力を今日はたしかに感じさせられた、とまで言うと調子よすぎなのかもしれないけど、その後いくつか巡った試飲場においても、このワイナリーの酒より抜きんでて優れていると思ったものはとくになかった。

長居をお詫びしつつO家を退去し、さらに幾つかの試飲場、ワイナリーなど巡り、夕方前には塩山を後にする。あずさも、かいじも混んでいる。立川で降りるKさんMさん、新宿で降りるEさん僕で席が別れる。お疲れさまでしたまたねと言って、隣席のEさんはややダウン気味で着席後すぐ眠り始め、目的地までほぼ目を覚まさなかった。僕は缶ビールと柿ピーを手にしつつスマホでネットを巡回しているうちに、いつの間にか新宿へ到着した。